啜り泣いた。啜り泣きながら苦しい夢幻の境に彷徨していた。画室の扉を開いて、信子が――それとも看護婦だったか――それとも、そんな筈はないが、岡部だったか――誰かがじっと覗き込んだようだった。彼は身動きもしなかった。いつのまにか外は霧が薄らいで、桃色の明るみに変っていた。煖炉の火が消えかかっていた。電灯の消えた室内に、茫とした盲《めしい》たような明るみがあった。
 ふと木下は我に返った。泣いていたことに気付いた。凡ての妄想が消え失せた。彼は云い知れぬ憤激の情に駆られた。呪わしかった。あらゆるものが、自分の身が。そして呪咀の気分の下から、一切を解決したいという焦慮が湧き上ってきた。呪って生きてやれという絶望の念が湧き上ってきた。彼は画室の中を見廻した。壁に掛ってる画面の歪んだのを、一々真直になおした。室の隅のカンヴァスを、大小の順に置き直した。卓子の抽出の中を片付けた。棚の上の書物や道具をきちんと整えた。そういうことをしながら、彼は死を想ってるのではなかった。呪わしい自分の生を愛護して突進せんことを想っていた。棚の上の花瓶を見た時、彼は身を震わした。唇をかみしめ眼をつぶってもたれかかってくる信子の姿が、一寸心に映じた。
 彼がまた危く荒廃の感の底に沈もうとした時、画室の扉が開いて、婆やの顔が現われた。彼女は、床に落ち散っている紙屑や布片を見て、眼を円くした。
「どうなさいました?」
 木下は答えなかった。
「御飯でございますよ。」と老婆は云った。
「僕は一寸出かけて来るから、後で此処を掃除しといて下さい。」と木下は云った。
 彼はそのまま、帽子も被らず家を出て行った。白く霜のおりた野の上に、弱い日が輝き出していた。彼は当もなく歩き出した……。
 彼は何処をどう歩いたか覚えなかった。ただ、後頭部にかすかな温みを送る朝日の光り、爽かな冷かな空気、霜の湿りを受けた黒い地面、何処かで鳴いた小鳥の声、遠い汽笛の音、それらを心に感じた。
 八時頃、看護婦が三疊で髪を結ってる時、木下は始めて病室に姿を見せた。彼は容態表をじっと眺めた。その朝の検査によると、熱三十八度二分、脈九十、呼吸十八だった。痰に交った血液は僅かだった。
「岡部!」と木下は云った。
「何だ?」と啓介は答えた。
 二人は一寸黙った。
「君は入院し給え。」と木下はやがて云った。「僕が凡て取り計らってあげる。それは僕の最後
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