んでしまったことだから、何も考えないで、早く癒らなければいけません。」
 室内は、妙にだだ白い明るみが次第に薄暗くなりかけていた。雅子は啓介の枕頭に、ぽつねんと坐っていた。
「お母さん。」と啓介はまた云った。
「え?」
「今晩は家《うち》に帰って下さい。」
「え! なぜ?」
「今晩は帰って下さい。」と啓介はくり返した。
「なぜそんなことを云うのです? 私はもうあの女《ひと》のことは何とも思ってはいません。蒼い顔をして看病疲れしている所を見ると、私達の方が悪かったような気さえするんですもの。私に考えもあります。安心していなさい。あなたのために悪いようにはしません。」
「いえ、そんなことではありません。」
「ではどうなんです? 私も一晩位はついていてあげます。あなたが病気になってから初めて来たのではありませんか。幾晩でも起きていてあげます。何でも云う通りに用をしてあげます。あなたが眠ったら、眼がさめないように静にしています。この室に居るのが気懸りなら、向うの室に行っています。一晩位起きていても何でもありません。看護婦さんもあの女《ひと》も疲れてるでしょうから、私が今晩は代りましょう。家を出かける時も、今晩は泊るとお父さんに云って来ました。」
「いいえ、お母さん……。」啓介は涙の眼を瞬いた。「今日は帰って下さい。」
「何をあなたは考えてるのです? 何か気に入らないことでもあるのですか。云ってごらんなさい。あなたの云う通りにしますから。」
 啓介は何とも答えなかった。氷枕の上に頭をかすかに震わせながら、じっと眼を閉じた。雅子はその顔を覗き込んで、閉じた眼瞼から溢れて来る涙を拭いてやった。しまいには彼女の方が泣き出した。そして二人共黙り込んでしまった。
 看護婦が胸の湿布を代える時に、雅子は画室の方へ行った。彼女は河村と木下とに相談した。河村は、病人の言葉に従った方がいいと答えた。医者の言葉をくり返して伝えた。木下はなんとも云わないで考え込んだ。遂に雅子は帰ることにきめた。十一時頃近所の電話をかりて容態を知らしてくれるように、木下に頼んだ。
 七時半頃、頓服薬をのんで啓介がうとうと眠った後に、雅子は漸く立ち上って帰っていった。河村が自宅まで彼女を送ってやった。
 帰る時に、雅子は信子へ云った。
「ではお頼みします、お疲れでしょうけれどね。いろいろ気を悪くしないで下さい。」
 
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