心配することはありませんよ。」と彼女は云い出した。「何にも考えないで、静にしているんですよ。木下さんの御話では、病気もそうひどくはないそうですからね。私もついていてあげます。前のことは何にも考えないがよござんすよ。ただ早く癒ることばかり考えてね。皆《みん》なでついていますからね。あなたが病気のことを聞いて、私も早く来たかったけれど、種々……ね。誰も怨んではいけませんよ。」彼女は涙ぐんでいた。「お父さんも初めは怒っていらしたけれど、……私としても、あなたが余りなことをするものだから、……でも決して放りっぱなしにしたわけではありません。あなたが家を飛び出してから、お父さんは何を云っても黙り込んでばかりいらしたし、私もしまいには黙り込んでしまって、御飯《ごはん》の時だって一口も口を利かないことがありました。苛ら苛らしたり急に沈み込んだりして……。」
「そんなことはいいじゃありませんか。」と河村は彼女を引止めた。
「でもね、心では、」と彼女は云い続けた、「みんなあなたのことを許してあげています。お父さんには私からよく云ってあげます。今日私が出かける時、お父さんはそわそわして、家の中をぐるぐる歩き廻っていらしたのですよ。病気さえ癒れば宜しいんです。何もかも私が承知していますからね。あなたは仕合せですよ。みんなでこうして……ほんとにあなたは仕合せですよ。」
 彼女は涙をはらはらと膝に落とした。
「お母さん!」と啓介は叫んだ。
 皆黙っていた。どうにも仕種がなかった。河村は氷嚢吊りの台木に片手でつかまっていたが、ひょいと立ち上って、木下と向い合って火鉢の側に坐った。看護婦はふと思いついたように、枕の氷を取り代えに立っていった。雅子は彼女の後を見送って、そのまま室の中を見廻した。信子が一人離れて坐っていた。信子は低くお辞儀をした。雅子も礼を返した。河村はその時、何か言葉を喉元まで出しかけたが、凡てに無関心なまでに深く考え込んでいる木下の顔を見て、口を噤んでしまった。看護婦は中々戻って来なかった。深い沈黙が落ちてきた。啓介は眼を閉じていた。
 看護婦が氷枕を下げて戻って来ると、「あり難う、」と啓介は云った。
 その言葉に河村は顔を上げて人々を見廻した。
「今日は実にいい天気ですね。」と彼は云った。「こんなだと、今年はわりに春が早いかも知れませんよ。私は春が一番好きです。家にじっとして
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