。これが少し拡がり出すと困難ですがね。……もし御心配なら、私の病院の院長に診て貰われたら如何です?」
「いえ、別にそういうわけではありませんが、実は、病人が母に逢いたがってるものですから。」
「ではすぐに呼んだらいいじゃありませんか。遠いのですか。」
「上野です。」
「上野! どうして今まで呼ばなかったのです?」
 木下は事情を話さなければならなかった。彼は手短かに、信子の恋愛事件から両親との衝突を物語った。
「分りました、」と本田は云った、「そうですか、私も何だか変だとは思っていましたが。……そして何時から病人は母に逢いたがっています?」
「今朝からです。」
「今朝から?」
 本田は何か考え込んで、煙草を取り出して火をつけた。そして云った。
「別に障りはしますまい。逢わしたらいいでしょう。……然し前から、非常に精神が興奮してるようですね。」
「ええ、他に事情もあったものですから。」と答えて木下は頭を垂れた。
「なるべく静にさして置かなければいけませんね。」
 二人は暫く黙っていた。
「では兎に角こうしましょう。」と本田は云った。彼は三時頃病院の用がすむので、その帰りにいつもより早めに立寄ること、そしてその頃病人の母にも来て貰うこと、なるべく多く口を利かせないこと。「痙攣はもう来ますまいが、余り精神に激動を与えて、ひどい脳症でも起されると困りますからね。」
「あれで、病気が癒っても精神が変になることはありますまいか。」
「なあに、それほど心配するには及びません。」
 木下は涙ぐんでいた。彼は、落付いた親切な医学士を、しみじみと感謝の念で見上げた。本田は立ち上った。室の中に懸っている絵を一巡見廻わした。それから、黙って出て行った。木下は急に深い淋しさに襲われた。無関心に眺められた自分の製作を、彼はじっと見やった。室の隅に裏返しに立てかけてある画面が眼にはいった。赤く塗りつぶした樫の絵だった。彼は云い知れぬ衝動を受けた。いきなりカンヴァスを取り外して、ずたずたに引き裂いた。
 彼は狼狽してる自分を見出した。じっとして居れなかった。画室から飛び出してすぐ病室に行った。信子と看護婦とが、同時に彼の顔を見上げた。彼は荒々しい顔付で、啓介の上に身を屈めた。
「お母さんを呼んできてあげるから、待っていてくれ給え。大丈夫だ。医者は君の容態は心配ないと云っていた。」
 啓介は眼付でう
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