新らしくして来てくれない?」
「ええ。」と彼女は答えて、なお暫く坐っていた。それから氷嚢を持って立っていった。
 彼はまじまじと天井を眺めた。室の中は薄暗くなりかけていた。彼は心の中にさしている落付いた明るみを取逃すまいとするようにして、仄白い天井板に眼を据えていた。
 信子が氷嚢を取代えて戻って来ると、啓介は涙ぐんでいた。彼女が、氷嚢の紐を台木に懸けて彼の額に適度に当てがってくれる間、彼は眼を閉じていた。
「木下君はまだ帰って来ないか。」と彼は尋ねた。
「ええ、まだですわ。」
「この頃よく写生に出かけるようだね。」
「何でも、非常にいい景色を見付けたとか仰言っていらしたわ。」
 二人はそれきり黙っていた――看護婦が湯から戻ってくるまで。

     二

 木下正治は、絵具箱のカバンを肩にかけ、十五号大のカンヴァスを重そうに左の小脇に抱え、右手を外套のポケットにつっ込んで、首垂《うなだ》れながら、荒凉たる晩冬の野を帰って来た。兎もすると、彼の足は引ずり加減になっていた。自分の製作に対する焦燥と不満とを心の底に押えつけて、じっと考えに耽っていた。自分の製作が何物かに裏切られていると同じように、自分の心も何物かに裏切られてはしないかという、漠然とした不安の念が寄せて来た。然し彼の瞑想は、その何物かの本体を探りあてようとする努力よりも、その何物かを抑えつけようとする努力の方に向いていた。
 野の間をぬけて、大きな銀杏の木のある人家の角を曲って、自分の家が向うに見える処まで来ると、彼はふと顔を挙げて思い出したように足を早めた。
 家にはいると、丁度信子が其処に顔を出した。彼女の窶れた顔に浮んでいる弱々しい微笑の影を見ると、彼は我知らず安心の情を覚えた。そしてそのまま画室に通った。彼が絵具箱や其他を卓子の上に置いていると、信子が扉口に佇んで彼の方を眺めていた。
「今日は如何《いかが》でしたの?」と彼女は尋ねた。
「駄目です。」
 そして彼が外套を脱いで其処に投り出す途端に、卓子の上の水差が引っくり返った。水は卓子の一部を濡らして床《ゆか》の上に流れた。信子は走り寄って、卓子の上の物を片附けた。
「いいですよ、」と木下は云った、「婆《ばあ》やがしますから。」
 然し信子はすぐに雑巾《ぞうきん》を持って来て拭き初めた。
 木下は病人の室の方へ行った。
 啓介は黙って彼の顔を見上
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