は静かだった。病室の空気は快く温って濡っていた。
「君は早く癒らなけりゃいけない!」と木下は思い込んだように云った。
「うむ、癒るよ。屹度癒ってみせる。」
「君が健康に復したら、僕はいろいろ君に話すこともある。」
「僕だってあるさ。君の議論に凹まされはしないよ。」
 木下は口を噤んだ。啓介も口を噤んだ。彼は木下の気分に自分の気分を合せることを好んだ。
 然し、一寸用を思い出したからと云って木下が立ち去ると、啓介は突然不安に襲われた。室の中を見廻すと、看護婦が一人ぽつねんと炬燵にあたっていた。信子の赤いメリンスの風呂敷が本箱の上にのっていた。夜眠る時電灯を遠くに引き吊る紐が、割目のはいった柱に下っていた。
 彼は耳を澄した。何の物音も話声もしなかった。不安は焦燥の念に変っていった。次の室との間の襖が、こつこつと軽く叩かれてるような気がした。襖を見つめると、またしいんとなった。襖の向うに測り知られぬ広い世界があった。その世界が真暗だった。何にも見えなかった。木下と信子とがその何処かに居る筈だった。二人は何か親しげに話をしていた……。
「尾野さん、」と彼は看護婦を呼んだ、「痰吐を空けて来てくれませんか。」
 看護婦は立って来て痰吐を覗いた。痰が二つ浮いてるきりだった。彼女は一寸病人の顔色を窺って、それから素直に、痰吐を持って室を出て行った。
 看護婦の戻って来るのが、啓介には大変長く思われた。彼は苛ら立ちながら待っていた。何の音もしなかった。病室の中が妙に明るくなって、その中に閉じ込められた自分の姿がまざまざと見出された。病室の外は広茫とした薄闇だった。薄闇の中に何かの影が次第に見えて来た。信子が居るようだった。木下が居るようだった。看護婦と婆やとが居るようだった。
 後はそっと蒲団の外に身体をずらし初めた。腰から下が石のように重かった。漸く足先が畳に触れると俄に力が出てきた。両手で蒲団をはねのけ、床柱につかまって立ち上ろうとした。手足ががくりと撓んで其処に倒れてしまった。そしてそのまま、畳の上を徐々に匐い出した。眼の奥が暗くなってきた……。
 看護婦が戻って来ると、蒲団の外にぬけ出して長く身を横たえてる啓介の姿を見出した。彼女は叫び声を上げた。信子が馳けつけて来た。執拗に眼を閉じている彼を、再び寝床に連れ戻さなければならなかった。
 木下がやって来ると、彼は静に眼を開い
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