た。
「そら泣いてるじゃないか。」
 彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。
「もう泣かなくてもいい。」と啓介はやがて云った。「僕が悪かった。許してくれ。僕は時々妙な気持に囚えられる。それは日が陰《かぎ》ってくるような気持ちだ。今迄明るかったものが、急に陰欝になってくる。凡てが頼りなく淋しく思われてくる。すると、自分を思い切って呵責《さいな》みたいような、また一方では何かに縋りつきたいような、訳の分らない感情に巻き込まれてしまう。腹を立ててるのか悲しんでるのか、自分でも分らない。多分その両方だろう。お前が一人でじっと坐っているのを見ると、お前を泣かしてみたいような……そら、僕達はよく二人で、夕方なんか黙って庭に眼を落しながら、心では暮れてゆく淋しい空を眺めて、いつまでもじっとしていたことがあったろう。しまいにお前は、いつのまにか涙を流していたね。……ああいうお前の姿を見たいような気になってくる。そしてまた一方ではそういう自分の心に一種の残忍な苛ら立ちを感じてくる。一体僕は何を求めているんだろう? 自分でも分らないんだ。そしてよくお前の心を痛めるようなことを云ったりしたりする。許してくれ。実際長い間こうして病気で寝ていると、何処か心の中に平衡が失われてくるものだ。お前を苦しめてるのなら許してくれ。僕はお前の幸福を願っている。此度はもう僕も助からないかも知れないと……。」
「いえ、いえ、そんなことを仰言っちゃいや。」
 信子は彼の蒲団の襟を両手に握りしめて、耳を塞ごうとでもするように強く頭を打ち振った。こみ上げてくる咳を押し止めて彼が顔を渋めると、彼女は急いで痰吐を取り上げた。それから枕頭のハンケチで彼の顔を拭いてやった。額には粘り気のある汗が出ていた。それを拭き取ると、氷嚢をよくあてがってやった。
「苦しかなくって?」
「いいや。」
「それならいいけれど、なるべく静にしているようにって先生も仰言っていましたから。」
「うむ、これから余りお饒舌《しゃべり》は止そう。それに……、ああ僕はどうしてこうなんだろう。何か云うと、屹度お前を悲しませることばかりしか口に出て来ないんだ。」
 彼は眼を閉じた。眼窩が落ち凹んで、鼻と頬骨とが目立って聳えていた。鼻の下と顎とには、薄ら寒い髯が伸びかかっていた。
「足をさすって上げましょうか。」と信子は云った。
「いや、今別にだるくな
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