いた。病室の中に逃げ込んだ。静かだった。
「どうしたんだ、つっ立って。」と啓介は云った。
信子は片隅に坐った。そして、追いつめられたように肩をすぼめた。過去のことが凡ての重さで、彼女の後ろからのしかかってきた。何れへ行こうと自由だと考えていた彼女は、自分の身を繋いでいる眼に見えない多くの鎖を、愈々の時になってまざまざと感じた。既に一人の男に身を任したことのある女性のみが知る鎖だった。彼女の悩みは、頭の中だけのものではなくて、実質的のものとなった。呼吸の度に、心臓の鼓動の度に、うち揺いでいる自分の柔かな肉体を、彼女は着物を通して見つめた。その肉体に泌み込んだ男の息吹きが、まざまざと感ぜられた。永久に絶ちきれない鎖、消すべからざる絡印。それから脱するには身を殺すより外に途はなかった。
啓介は一言も口を利かなかった。信子も黙っていた。そして彼女は、もう一歩も病室の外に出なかった。
十六
十一時、雅子が女中を連れてやって来た。
「入院するんですってね。」と彼女は云った。「もう動いても宜しいのですか。木下さんの電話が余りだしぬけなものですから、私は夢のような気がしました。それでも、こんな嬉しいことはありません。ほんとに早くよくなって下さい。入院して早くよくなって下さい。」
彼女は室の中を見廻した。
「木下さんは?」と彼女はふと気がついたように尋ねた。
「病院に行ってるのでしょう。」
「そう。」そして彼女は信子の方を向いた。「あなたも、病院についていて下さいましょうか。」
「はい。」と信子は口の中で答えた。
「それから……、」と雅子が云いかけた時、信子は其処につっ伏して泣き出した。声を抑えながら、あとからあとからと咽び上げた。雅子も涙ぐんだ。啓介はつと起き上ろうとした。そして床の上にまた倒れた。高子が彼の身体を支えてやった。
「すぐに仕度をして置きましょう、いつでも病院に行けますように。」と高子は云った。「静にして被居いましよ。私に任しておいて下さい。大丈夫ですよ、あの病院ならそう遠くはありませんから。」
彼女は床の間の種々な物を取りまとめ初めた。信子も立ち上った。然しまた其処に坐ってしまった。涙がこみ上げて来た。雅子がその側にすり寄った。
「あなたにもほんとに苦労をかけましたね。悪く思わないで下さい。」
「いいえ、私は……。」と信子は云いかけて、声を呑
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