いつも、なんか……やさしい匂いがしてたよ。」
「おっぱいの匂いだろう。」
「ちがうよ。僕はもうお乳なんかのまないよ。」
「パパはどんな匂いがするんだい。」
「パパには、匂いなんかないさ。」
「君には。」
「ないよ、男だもの。」
「すると、男には匂いがなくて、女にはあるのかい。」
「みんなかどうか、知らないよ。」
正夫は不機嫌に黙りこんでしまった。そしてまたメダカをつっつき始めた。
「やっぱり、君は一人ぼっちで淋しいんだね、そして大勢兄弟のあるメダカがうらやましいんだね。」
「ちがうよ、こんな兄弟なら、僕にだって、世界中にあるよ。」
「世界中に兄弟があるのかい。」
「あるさ、兄さんも弟も、姉さんも妹も、世界中にあるよ。」
「そして、パパもママもかい。」
「……ばかだね、君は。」
正夫に叱られて、おれは愉快になった。茶の間の方をのぞくと、山根さんはまだマニキュアをやっている。おれは諦めて[#「諦めて」は底本では「締めて」]、口笛をふきながら立去っていった。
三
その夕方、おれは南さんを千疋屋の二階に見出した。思った通りだ。いや思ってた以上に、南さんは晴れ晴れとしていた。どこでしたのか、髯を剃って、一風呂あびて、靴まできれいに磨かせているし、洋服や帽子の埃もはらってある。ホテルを出ていった時の様子とちがって、これなら、立派な紳士だ。
南さんはコーヒーをのんでいた。暫くすると、立上ったのであるが、出て行きはしないで、奥の食堂の方へ行き、食事をはじめた。コーヒーをのんでから、初めて空腹に気づいたのだろう。なるほどよく見れば、みなりはととのえているが、まだ頭はぼんやりしてるらしい。脹れていた顔付が、こんどは肉がおちて色艶がなく、眼瞼がはれぼったく、視線が重々しく据って、それでいてじっと物を見るのでもない。晴ればれとしてるのは様子だけで、精神はどんよりとしてるらしい。
南さんは食事をすまし、またコーヒーをのんで、そこを出た。そしてゆっくりと、じれったいほどゆっくりと歩いて行く。もうふらついてはいないが、足に力がなさそうだ。そして額には一抹の曇りがある。暫く歩いてから、ビヤホールにはいって、ジョッキーを半分ばかりのんだ。次に顔をしかめて、出ていって、またゆっくり歩きだし、こんどは裏通りの小料理にはいって、日本酒をのみだした。コースが、コーヒーから洋食からビールから日本酒と、まるであべこべだ。恐らく彼の頭も、時間を逆に辿っていたのだろう。おれは彼の真正面に両肱をついて、じっとその顔を眺めてやった。――「どうです、これを最後として、心残りなくやっつけますか……。」
南さんは苦笑を浮べ、眼をちらと光らした。そして紙入を取出して、中を調べた。
南さんは立上った。顔には赤みが浮きだし、瞳が輝いてきて、足どりもしっかりしていた。酒飲みの体力というものは、急に衰えたり燃えたったりして、まるで見当がつかないものだ。
こうなると、おれも辛抱してついてきた甲斐がある。しかも、南さんの行く先が、昨夜のアカシアだ。
おれが予言したように、西の空から明るく晴れかけていたが、もう夕方で、街は昼の明るみと照明とが相殺しあうおぼろな時刻、慌しい人通りだった。
カフェーの中はまだ人いきれがなく、さむざむとしていた。南さんは側目もふらず、まっすぐ二階に上ってゆき、一番隅っこの、芭蕉の葉影のボックスに腰を下した。あわててやってきた顔見識りの女給二人に、ただビールをあつらえ、煙草をふかし、片手で頭を支え、芭蕉の葉をぼんやり眺めた。
「昨晩《ゆうべ》、あれからどうなすったの。ずいぶん酔ってたわよ。」
すり寄ってきて、膝をつつかれたのに、南さんはただ、うん……と云ったきり、溜息をついた。
「それより、実は弱ったことがあるんだ。頼まれた話があって……登美子さんいるかい。呼んでくれない。あとで飲もう。」
二人の女給は意味ありげな目配せをしあって、素頓狂な大きな声で、登美子さあん……と叫びたてた。
これは、おれの気に入った。やはりおれが見込んだだけはある。いやしくも私立にせよ大学教授だ、多少の地位も名誉もあろう、それが、このだらしないカフェーで、多くの知人も出入してるここで、昨夜のことがあっての今日、登美子を呼んで内緒話とは、ちょっと出来すぎてる。だが、またこれでみると、昨夜のホテルの一件なんか、あとでよく分りはしたものの、乱酔のなかのこととて、実感としては何にも残っていなかったのかも知れない。然し、そんなこたあおれの知ったことか。――やって来た登美子は、染分け地に麦の大模様をあしらったモダーン趣味の金紗の着物をき、髪はお粗末な洋髪で、眼の大きな口許のひきしまった丸顔、どこかはすっぱでそして勝気で、仰向き加減に、金属性の声をしぼって映画の主題歌でも歌わ
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