ルから日本酒と、まるであべこべだ。恐らく彼の頭も、時間を逆に辿っていたのだろう。おれは彼の真正面に両肱をついて、じっとその顔を眺めてやった。――「どうです、これを最後として、心残りなくやっつけますか……。」
 南さんは苦笑を浮べ、眼をちらと光らした。そして紙入を取出して、中を調べた。
 南さんは立上った。顔には赤みが浮きだし、瞳が輝いてきて、足どりもしっかりしていた。酒飲みの体力というものは、急に衰えたり燃えたったりして、まるで見当がつかないものだ。
 こうなると、おれも辛抱してついてきた甲斐がある。しかも、南さんの行く先が、昨夜のアカシアだ。
 おれが予言したように、西の空から明るく晴れかけていたが、もう夕方で、街は昼の明るみと照明とが相殺しあうおぼろな時刻、慌しい人通りだった。
 カフェーの中はまだ人いきれがなく、さむざむとしていた。南さんは側目もふらず、まっすぐ二階に上ってゆき、一番隅っこの、芭蕉の葉影のボックスに腰を下した。あわててやってきた顔見識りの女給二人に、ただビールをあつらえ、煙草をふかし、片手で頭を支え、芭蕉の葉をぼんやり眺めた。
「昨晩《ゆうべ》、あれからどうなすったの。ずいぶん酔ってたわよ。」
 すり寄ってきて、膝をつつかれたのに、南さんはただ、うん……と云ったきり、溜息をついた。
「それより、実は弱ったことがあるんだ。頼まれた話があって……登美子さんいるかい。呼んでくれない。あとで飲もう。」
 二人の女給は意味ありげな目配せをしあって、素頓狂な大きな声で、登美子さあん……と叫びたてた。
 これは、おれの気に入った。やはりおれが見込んだだけはある。いやしくも私立にせよ大学教授だ、多少の地位も名誉もあろう、それが、このだらしないカフェーで、多くの知人も出入してるここで、昨夜のことがあっての今日、登美子を呼んで内緒話とは、ちょっと出来すぎてる。だが、またこれでみると、昨夜のホテルの一件なんか、あとでよく分りはしたものの、乱酔のなかのこととて、実感としては何にも残っていなかったのかも知れない。然し、そんなこたあおれの知ったことか。――やって来た登美子は、染分け地に麦の大模様をあしらったモダーン趣味の金紗の着物をき、髪はお粗末な洋髪で、眼の大きな口許のひきしまった丸顔、どこかはすっぱでそして勝気で、仰向き加減に、金属性の声をしぼって映画の主題歌でも歌わ
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