僕は是非ともつかまえてやりたくなって、どこまでも追っかけていった。
「なぜ逃げるんだい。一緒に手をつないで崖から飛び込もうよ。もうこうなったら仕方ないから。」
後から呼びかけても、返辞もしないで逃げてゆく。その後を追って、僕は崖の上をだいぶ長い間歩いた。すると、彼はふいに立止って、僕の方を恐ろしい顔で睥みつけた。僕も喫驚して立止った。
「何だって追っかけてくるんだ。」
「だって、一緒に手をつないで[#「つないで」は底本では「つけないで」]崖から飛び込むつもりじゃないか。」
「馬鹿だな、君は。」
「なぜ。」
「一人じゃ飛び込めないのか。一人で飛び込めないほどなら、僕を誘わない方がいい。」
僕が文句につまってぼんやりしてると、彼はどう思ったのかいきなり崖から飛び下りようとした。それを見て僕は気がふらふらとして、無我夢中で崖から飛び下りた。ざらざらした砂の急斜面で、止度なく滑り落ちたようだったが、不思議に怪我もしないで、ひょっこりと芝草の上に落ちついた。が僕はもう立上る気力もなくて、ぼんやり其処に屈み込んでいた。男はどこへ行ったのか影形も見えなかった。
だいぶたってから気がついてみると、僕は宿屋へ行く本道の側の草原に出てるのだった。霧が晴れて月が明るく輝っていた。顧みると、飛び下りたのはほんの二間ばかりの砂の斜面だった。
それにしても不思議なのはあの男だ。はっきり口を利いた所を見ると、霧に映った自分の影でもなさそうだったし、また山男という種類のものでもなさそうだった。
なに、訳の分らない話だって、そうだろうとも、僕自身にだって訳が分らないから。実際田舎の夜道をしてると、訳の分らないことに沢山出逢うものだよ。まだいろいろあるが、君も聞き疲れたろうし、僕も話し疲れたから、もうこれくらいにしておこう。ゆっくり煙草でも吹かそうじゃないか。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
1924(大正13)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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