に、そして実際帰れる筈だったのに、どうしたわけかもうそれが無くなりかけている。其処からは明るい田圃道ではあるけれど、前にも云った通り、やはり提灯の火がないと心細いのだ。僕は泣きたいような気持になって、遙か十町ばかり向うにこんもり茂ってる村の木立を、ちらりと上目がちに見やっておいて、出来るだけ足を早めて歩き出した。
 すると、森の大きな真黒い影が……というほどはっきりしたものではなく、何かこう形態《えたい》の知れない不気味な影が、同じ早さですぐ背後にくっついてくる。風のように音もなく、背中にぴったりくっついてくる。ゆっくり歩けばそいつもゆっくりとなるし、早く歩けばそいつも早くなる。恐くて恐くて、とても後ろを振返る元気などは出ない。命とたのむ提灯の火は、じじじ……と燃えつきようとしている。
 僕はその時くらい恐ろしい思いをしたことはない。がどうにか歩き続けられたのは、父がその道を夜遅く歩き馴れてるという考えからだった。僕の父は始終出歩いていて、自然と町で酒を飲むことなんかも多かったが、いくら夜が更けても、もう明け方近くなっても、またいくら酔っ払っていても、大抵は一人でその一里の道を歩いて帰って来た。而も田舎の人に似合わず、闇の夜でも提灯もつけずに、白鞘の短刀を懐にして、平気で歩いて来たのでるる[#「来たのでるる」はママ]。それを母が心配して、二人でいざこざ云ってるのを、僕は幾度か耳にしていた。
 で僕は、父が何度も通った道だ、始終夜更けに通り馴れてる道だ、とそう心の中で繰返しながら、その一事に縋りついて歩み続けた。それでも用捨なく、恐ろしい影は背後にぴったりくっついてくる。
 そういうことがだいぶ続いた後、もう村まで半分余りも行った頃、背中の影が拭うようにふーっと消えた。おやと思ったとたんに、向うの芋畑の畔の青草の上に、真白な狐が飛んで出た。そしてきょとんとした様子で、僕の方をちらと見やってから、前足を上げて額のあたりにかざしながら、おいでおいでと招くような手付を――足付を二三度して、またぴょんと芋畑の中に飛び込んでしまった。全身真白な艶々した毛並で、芋の葉からはらりとこぼれた露の玉よりも、もっと美しい銀色だった。
 それからしいんとなった。僕は喫驚してあたりを見廻した。月の光が一面に降り濺ぐような晴々とした夜だった。急に四方が明るくなって、胸の中までも明るくなった。僕
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