た。雪が薄く積っていて、まだちらほら降っていました。
 長身の白井がやって来て、上から木原の肩を捉えました。
「おい、寒いじゃないか。雪見はあとにして、こっちい来いよ。まだウイスキーがたくさん残っている。」
 白井の口笛に歩調を合せて、二人は酒の方へ行きました。
 その向うで、山崎が道化ていました。
 彼は照子の手を執って、一人でダンスのまねをしていました。
「意外ですねえ、あなたがダンスを知らないなんて。」彼はくるりと廻りました。「いや、そんな筈はありません。」またくるりと廻りました。「然し、僕と踊って下さらなくても、一向構いません。」またくるりと廻りました。「森村家の御令嬢で、三浦画伯の愛弟子で、そして……。」またくるりと廻りました。「そのお手を執らして頂いただけで、僕は充分に光栄です。」
 彼はステップを踏んで、そしてくるくると廻りました。
 そういう山崎に、片手の先を任せながら、照子は椅子にかけたまま、心持ち微笑を浮べてるように見えました。貴婦人がサロンで男に応対する態度とも、言えないことはありませんでした。彼女は眼鏡をかけていましたが、その枠縁が目頭のところで白銀色にちらちらと光り、近眼鏡の奥に眼眸が静かな光りを湛え、それら二つの光りが彼女を清純なものに見せました。
 その時、どうしてだかよく分りませんが、或は、踊っている一組の者が近づいて来たのをよけようとしてか、或は、ちょっといたずらな身振りをするつもりでか、山崎は少しく照子に近寄りすぎたようでした。照子は立ち上りました。山崎はあわてて後退するはずみに、そばの卓子にぶっつかりました。卓上で、まだ半分ばかり残ってるウイスキーの瓶が倒れかかり、それへ照子は手を伸しましたが、瓶はすべって床に転がり落ち、音を立てて砕けました。
 床に流れたウイスキーを、山崎は、手でしゃくって飲むまねをしました。
「おい誰か、ワンワンと吠えてみないか。そしたら僕が、犬のまねをしてこの酒をなめてみせる。」
「御婦人連にその合唱を頼もう。」と誰かが言いました。
 笑い声が起りました。
 ところが、一陣の冷りとした気配が流れました。――照子は黒革のハンドバックを取って、編輯局長といういかめしい肩書のある尾高の方へ、真直にやって行きました。
「粗相をしました。弁償致します。」
 百円札を五枚、彼女は卓上に置きました。
 尾高は呆気にとられて、贅肉の多い頬をもぐもぐさせながら呟きました。
「そんなこと……いいんですよ。いったい、どうしたというんですか……。困りますねえ……。どうせ、酔っ払った者が壊しますよ。まったく困りますよ。」
「いいえ、責任を果させて頂きます。」
「責任……何の責任ですか。」
「弁償致さなければ、責任が果せません。」
 彼女の調子には抗弁し難いものがありました。それでも、それは理解しにくい変梃な事柄でした。更に言えば、不愉快な色合のものでもありました。ちょっとの間、誰もみな口を噤んでしまいました。とはいえ、これをはっきり見聞きしたのは、尾高の近くにいた者だけで、遠くの者はただなにか変梃な冷りとする気配を感じただけでした。
 丁度、その場の空気を救うかのように、どんぶりの御飯が出て来ました。
 木原宇一は、尾高のところへ行って言いました。
「三浦先生が至急私に逢いたいということですが、なにか外に、社の用はありませんか。」
「ああ三浦さんか。」尾高は卓上の紙幣から解放されたように眉根を開きました。「いずれまた連絡するが、宜しく言っといてくれたまい。」
 木原は周囲の人々の思惑に顧慮することなく、ただ自分一人の思いに耽って、そこを出ました。そして進まぬ足でゆっくりと階段をおりて、玄開へ出ました。雪は薄く積ってるきりで、もう降りやんでいました。ちょっと佇んで外套の襟を立てていますと、いつしかそれが如何にも自然らしく、照子が追っついてきて肩を並べました。

「怒っていらっしゃるの。」と照子は尋ねました。
「なんにも怒ることなんかないじゃありませんか。」と木原は答えました。
 それは本当のことでした。然し、彼は怒ってはいませんでしたが、満足でもありませんでした。
 ――手袋もしていない手を、大勢の前で、長い間山崎に任せておくとは、どういうことだろう。但し俺は嫉妬しているのではないぞ。――自分が倒したのでもないウイスキー一瓶を、しかも飲み残しの僅かなものを、弁償する責任があるとは、どういうことだろう。俺の窺知し得ない心理だ。――あの眼鏡の枠縁の光りと、眼眸の光りと、二重の光りが、如何に深く俺の心臓に喰い入ってくることか。俺は泣きたい。
 それらの思いを、木原は照子に語りたく、而も言葉は見付からず、ただ黙々として歩きました。
 やがて、電車で、超満員の人込みの中に、二人肩を並べて立ってることに、木原は安心と喜びとを感じました。全くの他人の中に、身動きも出来ないほど押し込められてることは、確実な拠り所を持ってるのと同じに感ぜられました。そしてその電車から降りて、広い空間に放たれると、いろいろな不安が湧いてきました。
 電話が故障で通じなかったとしても、三浦さんがわざわざ照子を会社まで使によこしたのには、何か理由があったに違いありません。二人でよく話し合い肚をきめて来るようにとの、謎だったのかも知れません。正月のはじめ、屠蘇の機嫌の上とはいえ、照子の父親が、照子ももう二十五歳になったのだから今年中には断然結婚させると、家人たちの前で言ったということを、木原も聞いていました。そしてあの父親のことだから、それは必ず実行するに違いありませんでしたし、既に実行にとりかかってるかも知れませんでした。そのことについて、照子は三浦さんに相談したのでしょうか。彼女は何事も三浦さんに相談しているようでした。もともと、木原が照子と識り合ったのも三浦さんの家でのことであり、初めて愛を語り合ったのも、三浦さんの家からの帰り途でありました。三浦さんは二人の間をうすうす感づいてるようでした。そして或る時、木原に向って、君は本当に照子さんを愛しているのかと、真面目くさって尋ねたことがありましたが、その裏には、既に照子から意中の告白がなされてることが明かでした。場合によっては僕が一肌ぬいでやると、三浦さんは最近に言いましたが、その裏には、照子からいろいろ相談されてることが仄見えていました。照子はなぜ直接に木原に相談しなかったのでありましょうか。
 ――おう、すべてが三浦さんだ。そして俺は一体何だろう。彼女の愛情の対象ではあっても、彼女の相談相手ではないのだ。
 木原は空を仰いで息をつきました。曇ってる上にもはや暮れかけて、ただ茫漠たる思いだけが反響してきました。彼は夢のことを思い出しました。あの時、彼女はなぜいつも黙っていたのでしょうか。あの海岸で、なぜ彼について来なかったのでしょうか。
 丘陵地帯の崖上の、空襲による広い焼け跡で、ぽつりぽつりと小さなバラックが建ってる中に、道幅も定かでない昔の街路が真直に通っていました。それを、二人はゆっくり歩いてゆきました。
 焼け跡の耕作地をまだらまだらに被っている淡雪を見ながら、木原は言いました。
「照子さん、あなたは本当に私を愛して下さいますか。」
 照子も淡雪の方へ眼をやって答えをした。
「何度も誓いました通り、生涯かけてあなたを愛します。」
「生涯かけて……。」
「ええ、生涯決して忘れませんわ。どんなことがあっても決して……。」
 忘れない、その言葉を木原は心の中で繰り返しました。そして十歩ばかりして、彼は低い声で言いました。
「あなたは、もう、私と別れるつもりですね。」
 照子はちょっと立ち止りました。それから木原の肩にもたれかかるほど身を寄せてきて、ゆっくり言いだしました。
「もう覚悟しておりますの。あなたが一緒に死んでくれと仰言れば、今すぐにでも、御一緒に死にましょう。ええすぐにでも死にますわ。けれど、生きゆくのでしたら、立派に生きたいと思いますの。そのために、影でどんなに苦心してるか、あなたにはお分りになりませんわ。三浦先生にいろいろ御相談していますのも、そのためですの。結婚がもし出来るものなら、立派に結婚したいんですもの。身体一つであなたのところへ飛びこんでゆくのは、あまり惨めすぎますわ。衣類も道具もなく、お金もなく、犬猫のような結婚をして、生涯蔑まれるのは、たまりませんわ。そんなことで生涯蔑まれるのは、女にとってどんなことだか、あなたにはお分りになりませんわ。三浦先生は、よく分って下さいまして、いろいろ力になって下さいますの。きっと、わたしたちのために、よいようにはからって下さいますわ。」
 彼女は彼女の真実を言っていました。木原はそれをはっきり感じました。
 ――然し、それならば、俺は犬猫のような結婚を望んでいたのであろうか。いや俺も人間としての自尊心を持っている。ただ、彼女は、彼女一家は、そして三浦さんも、俺とは種族が違うのだ。
 そして何よりも、彼女の言葉の調子が気持ちにひっかかりました。真実を言ってるのではあるが、それが、なにか血の通わない作文みたいに感ぜられるのでした。
 舗装してある通路でしたが、所々に損傷があって、雪解けの水溜りを拵えていました。考えこんで歩いてるうちに、木原はうっかりそこへ踏みこんで、片方のズボンの裾を泥まみれにしました。
「あら……。」
 照子はハンカチを差出しました。木原はそれを受取って、ポケットに納めました。
「これは貰っておきますよ。」
 泥水まみれの足を運んでゆきますと、四辻になりました。その向うの焼け残りのところに、三浦行男の家はありました。木原は四辻の真中に立ち止りました。
「先に行ってて下さいませんか。私はちょっと、その辺で一杯やって、元気をつけてから参ります。」
 照子はちらちら光る眼で、じっと木原を見つめました。
「二人一緒に行っては、なんだか変ですよ。すぐにあとから行きます。」
 頬の筋肉が震え、眼に涙が出てくるのを、木原は自ら感じて、そのまま向きを変え、四辻を左へ曲ってゆきました。そこの坂の下のあたりに、酒と小料理の店が幾つかあるのを、彼は知っていました。
 彼は坂道をおりかけました。背後に照子のことが意識されました。焦茶のオーバーにきっちり身を固め、肉色のストッキング一枚のすらりとした足でつっ立ち、カールした髪の毛の下に眼鏡と眼眸とを光らして、こちらをじっと見ていることでありましょうか。木原は振り向きたい衝動に駆られました。或は、そこの物影に走りこんで、身をひそめて、窺いたくも思いました。照子が後を追って来るかも知れませんでした。然し、彼は歯をくいしばって抵抗しました。
 ――俺の将来を、俺の陣営を、純粋に保つためだ。四辻をこちらに曲ったことが、俺の今後の道標となるだろう。曲ったのではなく、却って真直に歩いたのだ。あすこを真直に行ったら、俺にとっては曲ったことになったろう。
 彼は眼をつぶって歩き、一度は滑ってころび、それから足を早めました。
 その坂下の小料理屋で、木原はすっかり酔っ払って、もう三浦行男の家へは行きませんでした。酔いつぶれながら、そして涙ぐみながら、道標とか、照子とか、胸の中で繰り返していました。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
   1947(昭和22)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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