ど驚かれることではなかった。
川蒸汽の中での一年ぶりの邂逅は、普通以上に、島村を微笑ましい落付いた気分になした。彼はしみじみと村尾の顔を眺めた。
「こんな船に、君も時々乗るのかい。」
「ゆっくりした用の時には、乗ることにしています。」村尾も落付いた調子だった。「僕の中にはまだ、こうした、ロマンチックなものが残っているんでしょう。」
そして彼はまた、きまり悪そうな微笑を浮べた。以前の面影がそれを中心に残っていた。二人は口を噤んで、水面や岸の方を眺めやった。河岸の家並にはもう夕暮の色がかけていた。二人は吾妻橋で船から下り、ぶらぶら歩いて、公園前の一寸した家で酒にした。
「この向うの仲町だったね、名古屋から来た女と持ち合せたとかいう、君の旧跡は。」
「旧跡とはよかったですね。だけど、実際僕は市内の方々に旧跡を持ってるんですが、それが、今では、自分の旧跡ではなく、誰か他人の旧跡のような気がするんです。生活の変化というものは、何もかも遠くへ押し流してしまうんですね。あの当時、僕は心残りのことが二つありました。一つは、信子に、決して愛してるんじゃないと知らしてやらなかったことで、も一つは、会社を罷めたまま退職手当を貰いに行かなかったことです。退職手当を貰うということは、単に金銭の問題じゃなくて、長年の勤労生活の清算をすることになるんです。然し今ではもう、その二つとも、どうでもよくなりました。結局つまらないことです。」
彼のうちに何か新らしい力強いものを感じて、島村は嬉しかった。村尾はなお当時のことを笑いながら話した。
「全く突然のことで、僕も面喰いましたよ。松浦久夫という、以前小さな或るグループを拵えていた仲間で、自由労働者上りの男ですが、僕をいきなり、あの生活から引抜いてくれました。あのままでいたら、僕はぐずぐずに腐ってしまったかも知れません。松浦はふだんはのろのろしてる男ですが、いざとなるとばかに素早いんです。僕が使い残してる金をひったくって、小さな印刷所をかり受け、それから、私の家の道具類で、入用なものはひそかに持ち出し、不用のものは売り払い、女中に暇を出し、行方が分らないようにして引越したんです。ばかに忙しくて、あの手記さえ、書き終える隙がありませんでした。僕はもう全く意志の力がなくて、松浦の云う通りになりました。考えてみると、僕は初めから、ばかげた芝居ばかりやって来たようで、ほんとに生活したことがなかったようです。只今は、松浦と二人で印刷所をやりながら、或る計画を立てていますが、いずれあなたにも御力添えを願うことになるかも知れません。そのうちに、松浦を御紹介しましょう。屹度あなたと気が合いますよ。滑稽なことには、抜目のない男ですが、私が会社から退職手当を貰っていないことには気付いていないんです。私も隠しています。知ったら、取りに行けと云い出すにきまっていますからね。」
村尾は[#「 村尾は」は底本では「村尾は」]ずるそうに笑った。その笑いが如何にも朗かだったので、島村はそれによって彼の生活を想像し、あの手記のことを思い出して、その変化に不思議な気がした。
「僕はどうも、ばかげた空想ばかりしてるような気がすることもありますが、時によると、そのばかげた空想が役に立つようです。あの生活からぬけ出す時もそうでしたが、只今でも実生活に役立つことがあります。」
「さっきの、何か計画を立ててるとかいうのも、案外そうした空想の産物じゃないのかね。」と島村は率直に云った。
村尾はちらと鋭く眼を光らしたが、別に抗弁はしないで、まあ飲みましょうと云った。島村はその杯をのんきに受けた。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1934(昭和9)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
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