いたずららしく眼を動かした。
「きっと籤に当るわ。」
 それは、千代次にならふさわしい言葉だった。そして室の佗しさは、ゆき子とのあの安宿に似ていた。この突飛な連想……というよりも寧ろ本能的な印象は、私を道化者になした。私は彼女の手を離さず、真心からのやさしい力を掌にこめ、そのまま身体をずらして、彼女の前腕の上に顔を伏せ、しみじみと涙ぐんだ。長い時間がたった。
「村尾さん……。」
 低い調子だったが、私は次の言葉を待たないで、もう顔を挙げていた。彼女は明かに、私の感動の様子のために感傷的になっていた。頬をかるく赤めて、眼を伏せた。電燈の光をあびてる艶やかな髪の影に、中高な尖った理智的な鼻が白く、その横顔の真中に、欠け縮れた醜い耳があった。私は心でその耳をふみにじりふみにじり、そして涙を浮べながら、のび上って彼女の肩を抱いた。彼女は冷く固くなっていた。私はその石像の唇を求めた。瞬間に、石像は肉塊になった。その肩の堅さと腕の強さとを私は知った。だが、つぶっていた眼を彼女が薄く開きかけた時、私は身を引いて、卓子の上につっ伏して、こんどはほんとの涙を流した。私は彼女の耳に内臓的な関係までありそうに思えるほど醜いその耳に、足の下にふみにじった気でいるその耳に、唇を押しあてたかったのである。それが出来なかった。彼女に対しても、また自分自身に対しても、そこまでの残忍さは出来なかった。感傷的な涙は止らなかった。
「泣いちゃだめよ。もっともっと、悲しいことがあるかも知れないから……。」
 その言葉と、背中に添えられてる手とを、私は煩わしいものに感じた。涙を拭いて身を起すと、彼女の理智的な高慢な鼻が真正面に私の方を向いていた。冷たく澄んだ眼がちらと外らされて宙に据った。頬からは少し血の気が引いて、唇がふるえたが、もう彼女は何も云わなかった。
「許して下さい。」
 私はそう云ってまた涙ぐんだが、おかしなことに、胸の底は冷く、その言葉も彼女に届かないで自分に戻ってくる気持だった。
 ――手記に現われてるこの場面には、少し作為があるようである。それは実際の情景の記述と見るよりも寧ろ、村尾自身の心理解剖と見るべきであろう。心理解剖というやつは、何かを見落すのが常であって、見落すことによって整理する。
 手記のずっと先の方に、次のような一節がある。
 私は実際、男女関係に於ても、何ものにも囚われない自由な朗かな心境にあることを、自ら喜んでいた。然しこの考えは或は間違っていたかも知れない。私がもし恋をしているか、恋でなくとも何等か一つの愛情を持っていたならば、ゆき子にも信子にも、また他の誰にも、ああいう態度は取らなかったろう。そしてこんな惨めなところに落込むことはなかったろう。極端に云えば、独身でいたのがいけなかったのかも知れない。然しながらまた、自由に遊蕩出来るだけの金を持っていたら、問題はおのずから異る。要するに、貧乏でそして愛人がなかったのがいけないのだ。とはいえ、今は寧ろそのことを感謝したい気持である。
 ――この一節を考え合せると、前の場面から何かが見落されてるように思われるのである。村尾はまたこういうことも云った。「僕が彼女の醜い耳に誘惑されたことのうちには、実は自分の理性に対する反抗もあったかも知れない。」

 結局は自分自身を惨めになすに過ぎなかった信子との事柄は、二千円の勧業債券に対して私を無頓着ならしめた。私はそれについて、大して感謝もしなかったし、また大して躊躇もしなかった。それに元来私は、金銭のことは水量みたいなもので、水準の高い方から水準の低い方へ水が流れこむのは当然のことで、こちらの水準が高くなればこんどは他へ流してやると、そういう呑気な考え方をしがちだった。その上、緒方久平氏が知っていながら、勧業債券なんかを持って来たのは、抽籤という他愛ない僥倖を考えての母と娘の策略だと、大目に見過すことも出来たし、また、会社から借りる方が支払いに便宜だとも考えた。
 翌日、早速、母が大事にしていたものですけれど……と云って、社長に頼んでみた。社長は一寸額に皺をよせて考えたようだったが、別に穿鑿もせずに、その担保貸出を取計らってくれた。而も社員だというので特別に、抽籤期はまだ遠いにも拘らず、額面高の貸出をしてくれた。私は二千円の紙幣をポケットにつっこんで、その晩直ちに、急を要するところへ二ヶ所だけ廻って、支払いをすました。そして半分ほど残ったのを、不足ながらも、他の方面へどういう風に割りあてようかと考えた。そういうことが、私の性質からすれば、またこれまでの例としても、朗かに楽しく為される筈であったが、どうしたものか、こんどは却って私を憂欝にした。殆んど諦めていたところへ、思いがけなく道が開けたようなものではあったが、私の心は少しも開けずに益々欝屈
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