って来たようで、ほんとに生活したことがなかったようです。只今は、松浦と二人で印刷所をやりながら、或る計画を立てていますが、いずれあなたにも御力添えを願うことになるかも知れません。そのうちに、松浦を御紹介しましょう。屹度あなたと気が合いますよ。滑稽なことには、抜目のない男ですが、私が会社から退職手当を貰っていないことには気付いていないんです。私も隠しています。知ったら、取りに行けと云い出すにきまっていますからね。」
 村尾は[#「 村尾は」は底本では「村尾は」]ずるそうに笑った。その笑いが如何にも朗かだったので、島村はそれによって彼の生活を想像し、あの手記のことを思い出して、その変化に不思議な気がした。
「僕はどうも、ばかげた空想ばかりしてるような気がすることもありますが、時によると、そのばかげた空想が役に立つようです。あの生活からぬけ出す時もそうでしたが、只今でも実生活に役立つことがあります。」
「さっきの、何か計画を立ててるとかいうのも、案外そうした空想の産物じゃないのかね。」と島村は率直に云った。
 村尾はちらと鋭く眼を光らしたが、別に抗弁はしないで、まあ飲みましょうと云った。島村はその杯をのんきに受けた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1934(昭和9)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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