、と尋ねられた。彼はまじめくさって、考えてることがあるからと答え、職を罷めるか罷めないかは自分の自由だが、罷めさせるか罷めさせないかは社長の自由だと云った。それからは、社長はひどく冷淡になり、彼の方を見向きもしなくなった。また或る時、会社の方へ、古賀に関する債権者がやって来たので、月末には全部始末すると云って、その月末という言葉だけを何度も繰返していると、債権者はそのまま帰って行った。また彼は、すばらしい洋服を一着拵えようと考え、その服地や縞柄から、帽子、ネクタイ、靴などのことまで、こまかく想像してみた。そういうことが、淡々と述べられていて、最後に、調子が一変して、少し以前のことであろうが、社長依田賢造の弟がロンドンの銀行に赴任する折、東京駅で彼が見送人受付係の一人となった時のことが、回想されている。その記述を辿ろう。
 名刺受[#「名刺受」は底本では「名剌受」]をのせた粗末な小卓の前に立っていると、多くの紳士淑女たちが、名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]差出して丁寧にお辞儀をしていった。名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]忘れて、名前を告げながら、顔を赤らめて恐縮してる者もあった。私は自分でも意外な或る傲然たる気位で、反身になって彼等に接した。発車五分前に、名刺の[#「名刺の」は底本では「名剌の」]整理を他の人に頼んで、私はフォームへはいっていった。わざとゆっくりと歩いてやった。車窓から頭を出してる依田の弟を中心に、大勢の見送人たちは円陣をつくっていた。すぐに汽車が動き出して、万才の叫びが起った。その声が消え、汽車が遠ざかると、今迄一つの気分にまとまっていた群集は、個人に分解されて、もう各自に他のことを考えていた。私はその中で、俄に淋しく惨めな気持になった。誰も私を気にも止める者はなかった。私は首垂れて、乗車口の方の構内へ出て行ったが、その時、おかしなことを思い出した。丁度朝の出勤時刻、大勢の人がその構内から丸ビルの方へ流れ出してる時、一陣の風がさっと来て、茶色の中折帽が一つ飛び、電車線路のところへ転っていった。その男は両手をオーバーのポケットにつっ込んだまま、三四歩よちよち駆け出し、それから両手を出して帽子を追っかけ、拾い取るが早いか、埃のついたままの帽子を慌てて頭にのせ、ハンカチで顔を一撫でして、真直に歩いていった。そこに、何かしら滑稽な体面があ
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