入れて下さらないんですよ。」
 恒夫は起き上って、祖母の方へ向き直った。
「それ何のことですか、お祖母さん。」
 祖母は眼をしぱしぱさした。
「あなたはまだ何にも知らないんですか。」
「何を……。」
「お母さんから何とも話がありませんでしたか。」
 恒夫は何とも答えないで、祖母の顔を見守った。見ているうちに、少し分りかけてきた。「じゃあ僕に兄弟があるんですね、お祖母さん。夢にみたりぼんやり考えたりしてたことが、本当だったんだな。ねお祖母さん、それは僕の兄さんですか、弟ですか、妹ですか……そして何処にいるんです。」
 祖母は急に気が挫けたようになって、その話を避けたがった。然し恒夫は承知しなかった。嵩にかかって祖母へ尋ねかけながら、もしその話をはっきり聞かしてくれなければ、自分を愛してはいないんだ、というようなことまで云った。すると祖母は、誰にも洩らさないという約束をさした上で、大体次のようなことを話してくれた。
 恒夫の父と母とは、結婚して五六年後まで子供が出来なかった。所へ不意に恒夫が生れた。大変な喜びだった。祖父なんかは、殆んど一日中赤ん坊の側に坐り通して、女中達を叱り飛ばしていた。が不幸にも、その頃から父は肺病にかかった。方々へ転地しても療らなかった。別に寝つくほどのことはなかったが、常に熱と咳とが去らないで、非常に気むずかしくなった。その父の面倒をみるのに、赤ん坊を抱えた母だけでは手が廻りかねた。そして、苛々してる父の側で、ごく忠実に働いてくれる女中が一人あった。その女中が妊娠した。祖父が一番ひどく腹を立てた。それが祖母の骨折りでうまく納った。その女中は、お腹の子供と多少の金とを持って、或る人の所へ嫁入った。そして生れた子供は男の子だったが、すっかりその人達の子として育てられた。父が死んだ時一寸来たばかりで、全くの他人となっていた。今ではその一家は、大塚に紙屋をやっていて、他に二三人子供もあり、わりに楽に暮していた。恒夫の弟に当るその子は、小野田茂夫といって、豊山中学校に通っていた。
「本当ですか、お祖母さん。」と恒夫は叫んだ。「お祖母さんはどうしてそんなによく知ってるんです。」
「表向きどうということは出来ませんけれど、間に人を立てて、影ながら面倒をみてやってるので、すっかり様子は分っていますよ。」
 その言葉が終らないうちに、恒夫はふいと立上って、自分の室へ馳けていった。そしてまだ耳に残ってる、弟の名前とその住所とを手帳に書き留めた。それから俄に分別くさい様子をして、祖母の所へ戻ってきた。
「お祖母さん、僕の弟に逢いたいでしょう。」
 答がないのでよく見ると、祖母は炬燵の上に顔を伏せて、眼から涙をこぼしていた。
 何が悲しいんだろう、と恒夫は一寸考えてみたが、分らなかった。それでも祖母の涙は、何だか神聖な触れてならないもののように感ぜられた。胸の奥でぴくりとして、途方にくれて、縁側に出てみた。西に傾きかけた日脚が、明るく一面に照っていた。空が青くて馬鹿に高かった。彼は其処に踊り跳ねたい気持をじっと押えて、弟の面影を想像し初めた。
 軽い咳の音がした。振向いて見ると、祖母は左の肩に手をやって揉んでいた。
「僕が叩いてあげましょう。」
 そして彼は元気よく祖母の後ろに坐って、祖母の痩せた頸筋と赤みがかった髪の毛とを、初めてのように珍らしく眺めながら、指先で眩《めまぐる》しいほど早くその肩を叩きだした。

 静かな晩だった。来客の用心に拵えられていた御馳走と、料理屋からみやげに持って来られた御馳走とに、恒夫はすっかり満腹して、額が軽く汗ばんでくるような心地だった。
 祖父はまだ餉台の前に端坐して、ちびりちびり酒を飲んでいた。母は長火鉢の銅壺で酒の燗をみていた。祖母は炬燵を持って来さして、それにあたりながら脇息によりかかっていた。そして皆の間には、法会のことや親戚の人達の噂など、いつもより多くの話題があった。電燈の光もいつもより明るかった。
 それらの光景を、恒夫は不思議そうに眺め廻した。いつまでも膝をくずさずに坐り続けて、満足げに盃を挙げてる祖父の様子が、何だか馬鹿げているように思われた。眼付から言葉付まで、四方八方へ気兼ねをしてるらしい祖母の様子が、何となくはがゆく思われた。人のよい温和な笑みを浮べながら、押しても動きそうにないほどどっしりと構え込んでる母の様子が、変に愚かしく思われた。今この真中に、弟を不意に連れて来たら……などと考えると、妙に面白く可笑しくなってきた。
「恒夫、」と祖父が突然声をかけた、「何を一人で笑っている。ここへおいで、今日は特別に一杯飲ましてあげるから。」
 恒夫は一寸躊躇したが、思い切って祖父の方へ寄っていって、盃三杯ばかり続けざまに飲んでやった。祖父は首を縮こめて、頓狂な顔付をした。
「ほ
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