高原で見らるるすぐ手に取らるるような低い空が、秋の澄み切った冷やかな空が。そして私の下にはすぐ大地がある、草木を枯らしまた芽ぐます黒い土地が。顧ると、小さな甲虫が私の顔のすぐ側に這い出している。じっとしていると、それは私の着物に這いつき、肌に這いよってくる。ただ私の方が、彼等よりいくらか温い肌をしているのみである。
 戦場ヶ原の水は多く中禅寺湖の方へ吸い取らるるので、多くの盆地に見るような湿気が少い。そして草は高く伸びて、牛の群れが戯れるによく、羽の美しい甲虫が這い廻るによく、人の寝転ぶによく、鳥が巣くうによい。じっと寝転んでいると、すぐ顔の上を小鳥が空に舞い上って囀っている。
 そうして私は秋の澄み切った大気のうちに、草の上に横わって長い間じっとしていた。そして私の血管のうちには古い田野の神の血が流れ、私はもはや人間の兄弟ではなく、凡ての生けるもの、凡ての事物の、兄弟であった。けれど、ふと立ち上って、広い高原の上を見渡したとき、私の眼は何を探し求めたか?
 私は牛の群を見た、牛飼の姿を見た、また遠く一軒の茶店の藁屋根を眺めた。そして顧ると、自分の心が震えていた。秋の透徹した大気の中に露わに曝されて転っている自分の心が、震えて居た。何処からともなく冷かな空気が流れて来て、足下の草葉が戦いでいる。
 雄大な姿をくっきりと空に峙たしている男体山の峯影から、それとも見えぬ靄が平原の上に流れ寄って来るのであった。それはやがて、西に傾く日脚の後を追って、平原の上に濃く立ち罩めて来るであろう。そして禿岩の上に霜を置き、草葉の末に露を置くであろう。遠くその高原をかこむ山の頂を越えては、平地の上に夜の雲を被せるであろう。
 私は逐わるるようにして自分の巣の方へ帰って行った。そうだ、巣というより外に、自分の宿を指して名づくる言葉をその時私は知らなかったのである。
 静かな湖水の縁に沿って、白樺や※[#「木+解」、第3水準1-86-22]や落葉松の立ち並んだ間を分けて、曲りくねった一筋の道を辿ると、枯枝の束を背負った女に私は幾度か出逢った。そして道の傍で、風に倒れた大木の幹を切っている男を見た。雪が来ない前に彼等は、それらの薪を自分の小屋に運ばねばならないのである。彼等の節くれ立った頑丈な指先を見て、私は何かに感謝したくなった。何故か? 私はそれを知らない。彼等は私と何の交渉もないのだ
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