音がするなんて。胃袋が瓢箪みたいにくびれたんでしょうか。」
八重子は眉間に皺を寄せていた。
木山は頭を拭きながら言った。
「ばかな。神経のせいだろう。」
「神経のせいにしても、そうなったら、どうなんでしょうね。わたくし、ぞっとしますわ。」
「だから、医者にみせなさいと、いつも言ってるじゃないか。」
「あなたがおみせなさるなら、わたくしもそうしますわ。あなたの方こそ、きっとどこかお悪いんですよ。寝汗をおかきなすったり、頭から汗をお出しなすったり……。」
木山はいやな顔をして口を噤んだ。何度も繰り返されたことだったのである。木山が医者にかかるなら、自分も医者にかかる、さもなければ……と八重子は主張した。主張というほど強いものではなかったが、繰り返されると、なにか頑迷なものに感ぜられた。そしてそのつど、寝汗だの頭の汗だのが持ち出されるのである。
「ほんとに、医者におみせなすったら……。」
木山は腹が立ってきた。
「それより、胃袋の中のごっとんごっとんの方が先だろう。僕も、動悸がどっきんどっきんしたら、医者にみせるよ。」
言ってしまってから、木山はますます不快になった。実際、脈搏が早くなっていたのである。白髪染めの八重子の髪の臭いが、気のせいか鼻についてきた。
彼はいい加減に酒を切り上げて、外出の仕度を始めた。
そこへ、事務所から、というより地方新聞の出張所から、電話がかかってきた。
その地方の神社の一つに、みごとな松並木を持ってるのがあった。その松のうち、二本ほど、昨年から枯れかかっていた。県の技手の調査によると、松食虫の害らしいとのことで、伐採の議が起ったが、古老たちの反対で、まあもう暫く様子を見てみようということになっていた。ところが、どうも生き返る見込みがなさそうだから、暑くならないうちに切り倒して、害虫の蔓延を防ごうということになったが、有力な反対が起った。なにしろ一種の神木に関することであり、慎重を期する必要があるので、も一度、専門の博士に鑑定を仰ぎたい。ついては、木山宇平がこんどあちらへ行く際に、その博士を同道願えないものだろうか。そういう頼みだった。
木山は忘れていたが、明後日、彼は出張する予定だったのである。
木山は聞いていて、かっとなった。事務員を怒鳴りつけた。
「予定はあくまでも予定だ。僕があちらへ行こうと行くまいと、それは僕の勝手じゃないか。僕の方にだって都合があるからね。」
彼は由美子のことを思い出していた。
「松の木のことなんか、今明日にさし迫った問題じゃあるまい。」
くどくどと、弁解の言葉が受話器に伝わってきた。
「だいたい、ばかげた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残ってるのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか。」
くどくどと、また弁解の言葉だった。
「そんなこと、取り合うのがばからしい。電報を打つんだ。松食虫に相違ないから、切り倒せと、電報にするんだ。」
なおくどくどと、弁解の言葉だった。
「そんな下らない用は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね。」
二十分ほども怒り散らして、木山は電話口を離れた。
彼は書斎に上ってゆき、茶の間に下りてき、庭をぶらつき、それからまた酒を飲みだした。眉をしかめながら、黙々として飲んだ。
女中を呼んで、すぐに風呂をわかすように言いつけた。
そして時折、小刻みに頭を震わしてるのだった。
八重子は慴えたように、彼の様子をひそかに見守るばかりで、口が利けなかった。
彼はなんだか皮肉な笑みを浮べて、八重子に言った。
「僕はやはり、お前を愛していたようだ。勘弁なさい。医者にもかかる。お前も医者にかかれよ。胃袋のなかの、ごっとんごっとんか。」
彼はまた黙りこんで、酒を飲んだ。それから、少し気分がわるいから昼寝をすると言って、布団を敷かした。
「風呂がわいたら起してくれよ。」
八重子は暫くそばについていたが、寝息の音が聞えてきたので、そっと室から出た。
一時間ばかりたった後、風呂がわいたので、八重子は木山を起しにいった。木山は少しく布団から乗り出し、半眼を見開き、片手を畳に投げ出して、もう息絶えていた。
呆気ない最期だった。医者の診断は脳溢血だった。
後になって、八重子は言った。
「怒りの虫にとっつかれたと言うひともありましたが、それにしては、安らかな死に顔でした。」
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「群像」
1951(昭和26)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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