じゃないか。僕の方にだって都合があるからね。」
彼は由美子のことを思い出していた。
「松の木のことなんか、今明日にさし迫った問題じゃあるまい。」
くどくどと、弁解の言葉が受話器に伝わってきた。
「だいたい、ばかげた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残ってるのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか。」
くどくどと、また弁解の言葉だった。
「そんなこと、取り合うのがばからしい。電報を打つんだ。松食虫に相違ないから、切り倒せと、電報にするんだ。」
なおくどくどと、弁解の言葉だった。
「そんな下らない用は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね。」
二十分ほども怒り散らして、木山は電話口を離れた。
彼は書斎に上ってゆき、茶の間に下りてき、庭をぶらつき、それからまた酒を飲みだした。眉をしかめながら、黙々として飲んだ。
女中を呼んで、すぐに風呂をわかすように言いつけた。
そして時折、小刻みに頭を震わしてるのだった。
八重子は慴えたように、彼の様子をひそかに見守るばかりで、口が利けなかった。
彼はなんだか皮肉な笑みを浮べて、八重子に言った。
「僕はやはり、お前を愛していたようだ。勘弁なさい。医者にもかかる。お前も医者にかかれよ。胃袋のなかの、ごっとんごっとんか。」
彼はまた黙りこんで、酒を飲んだ。それから、少し気分がわるいから昼寝をすると言って、布団を敷かした。
「風呂がわいたら起してくれよ。」
八重子は暫くそばについていたが、寝息の音が聞えてきたので、そっと室から出た。
一時間ばかりたった後、風呂がわいたので、八重子は木山を起しにいった。木山は少しく布団から乗り出し、半眼を見開き、片手を畳に投げ出して、もう息絶えていた。
呆気ない最期だった。医者の診断は脳溢血だった。
後になって、八重子は言った。
「怒りの虫にとっつかれたと言うひともありましたが、それにしては、安らかな死に顔でした。」
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「群像」
1951(昭和26)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(
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