階段の裏などに、大きな蜘蛛の巣が張られていて、その真中にあの不気味な怪物が控えている時、人の心には知らず識らず、一種の神秘な恐れが湧いてくる。妖怪屋敷や廃墟壊屋に、いつも蜘蛛の巣がつきものとなっているのは、自然そのままの現象ではあるが、また人の心の自らなる連想作用でもある。
蜘蛛のうちでも最も傑出しているのは、女郎蜘蛛である。多くの蜘蛛はどす黒い汚い色をしているのに、彼だけは、背と腹部とに幾筋もの金線をめぐらして、誇らかに光り輝いている。多くの蜘蛛は昼間隠れて夜分姿を現わすのに、彼だけは、白昼も傲然と巣の真中に逆様に控えている。体躯も比較的大きく、最も精悍である。
その女郎蜘蛛が、東京の市内には見当らない。私は未だ嘗て市内でその姿を見たことがない。他の蜘蛛は、それぞれの種類を市内で見かけるが、女郎蜘蛛だけはどこにもいない。けれども、東京の周囲、大森、玉川、赤羽、市川などには、女郎蜘蛛が沢山いる。
昨年の初秋、私は玉川に行ったついでに、大きな女郎蜘蛛を五六匹捕えてきた。ミルクの空缶に草の葉を軽くつめ、その間々に蜘蛛を入れ、四方に錐で空気ぬきの穴を拵えて、紐で下げて来たのだが、蜘蛛は別に弱った風も見えなかった。庭の木に放すと、のそりのそり梢の方へ這い上っていって、枝葉の茂みに隠れてしまった。
その晩私は楽しく眠れた。「土蜘蛛」や「滝夜叉姫」などの物語を空想することは、吾々の生活を豊かにしてくれる。
そして翌朝、いつもより早く起き上ってみると、何という愉快さだったろう。庭の木々の梢に、あちらこちらに、美事な大きな巣が張られていて、その真中に女郎蜘蛛が一匹ずつ、逆さにじっと構えこんで、背と腹の金筋を朝日に輝かしているのである。私は嬉しさの余り、妻や子供達を呼んだ。子供達は初めて見る女郎蜘蛛の不思議さと美しさに眼を見張った。美や神秘に対する子供の敏感さよ。だが、田舎の子供達は、女郎蜘蛛の巣で蝉取りの道具を拵えて遊ぶのである。
それから私は毎日、女郎蜘蛛を眺めて暮した。少しでも変な気配があれば、蜘蛛は巣を揺ぶって警戒する。蝿や蛾が巣にかかれば、一瞬の猶予もなく、飛びついて、くるくると白糸でからめて、巣の中央に持ち返り、暫く様子を窺ってから口をつける。生血を充分に吸う時その腹は大きくなり、食物の不足な時には心持ち小さくしぼんで見える。カステーラの屑を放ってやると、白糸
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング