、もう磨滅しきった朧な仏の立像が、かすかにそれと見分けられる。北に廻ってみると、円柱の面にいきなり梵字で「キャ・カ・ラ・バ・ア」と五字刻んである、アの字の下半分が磨滅して、古色蒼然としている。キャカラバアと云えば、地水火風空の意味である。
「この碑の由来を知っているか。」
「知りません。」
「なに知らない。君は大学に三年も通って、何を学んだ。」
 私は反問した。
「じゃあ、この碑の由来を、あなたは御存じなんですか。」
「はははは、わしも知らない。」
 私は唖然とした。
 月の光が一面に降り注いでいた。その光の下のこんもりとした木影の中に、ぬっと立っている仏像と梵字の碑が、怪しく私の頭に刻み込まれた。

 それは、私が大学を卒業して四五年後の話である。
 それからやがて、大正十二年の大地震が起った。大学の中はめちゃくちゃになった。碑のことなんかを、恐らく誰一人顧慮する者はなかったろう。
 翌年の春の半、私は或る爽かな夜の九時頃、酔心地のものうい足を引きずって、不忍池の方から戻って来て、大学の裏門から正面へぬけようとした。そして、八角講堂の裏を通る時、ふと、季節こそ違え同じような気分で、A老人と一緒にそこを通ったことを思い出した。
「あの碑はどうなったかしら。」
 震災のため廃墟のようになった構内を見廻しながら、心覚えのあたりまでやって来ると朦ろな月の光に、破損が却って風致をましてる工科大学の古めかしいシャトーを背景にして、これはまた湍々しい冬青樹の若葉の下影に、例の碑がぬっとつっ立っていた。
「ほほう。」
 私はその側に歩み寄って、露に冷い饅頭笠の石の上を、やさしく撫でてやったのである。
 愉快だった。
 正面前から電車に乗るのを止して、すぐに老人の家を訪れた。
「あの大学の石の碑は、地震にいたみもしないで、元の通り立っていますよ。」
 A老人はきょとんとした顔をした。がやがて、それが何のことだか判ると、エヘンと一つ咳払いをしたのである。
「それはそうなくちゃならん。」

 それ以来、私は碑の前を通る時にはいつも、意識的にまた無意識的にも、その方へ一瞥を投げるのである。そして、遠目には殆どそれとも判らぬ仏の立像を見ながら、裏面の文句を口の中で繰返す。
「キャカラバア……地水火風空……。」
 おのずから神韻縹緲として、胸廓の広きを覚ゆるのである。



底本:「豊島与志
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