前を買い取って家の庭に据えたかったんだ。然し、お前も知ってる通り、僕は貧乏なんだ。お前の値段がどれほどのものか、運搬の費用にどれほどかかるものか、さっぱり見当がつかなかった。なにしろでっかい石だからな。だから僕はだいたい諦めて、金持ちの友人に買って貰おうと思ったよ。これは俺の恋人だ。君が買い取って庭に据えておいてくれ、時々見に行くからね、とそう僕は言った。だが、誰も買ってくれる者はない。もし見ず識らずの者に買われたら大変だ。僕だって、いつまでも貧乏だとは限らない。いまに金を儲けたら、君を家の庭に引き取るから、それまで待ってくれ、それまで待ってくれと、心で泣いていたよ。辛かった。切なかった。お前の肩につかまって、幾度涙を流したことか。
男――それから、戦争さ。僕は遠くへ行った。さんざん苦労をした。だが、お前も、空襲に堪えて、よくここにじっとしていてくれたね。見れば、美しい苔も剥げ落ちてしまってる。火をかぶったのか、黒くよごれてる。子供たちのチョークで、いたずら書きはされてる。でも、そんなことはどうでもいいんだ。無事にここに立っていてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。もしもお前がどっかへ行ってしまったら、僕はもう……。
狸石のほとりに、また青白い火がどろどろと燃えた。その明るみの中に、地中から湧き出したかのように、女の姿が現われた。眼鼻立ちはきりっとして美しいが、肉がすっかり落ちて蝋細工のように見え、縞模様も分らぬ着物をまとい、髪を乱していて、死人のような感じである。不思議なことには、男と女は顔を見合せもしなかったが、互に相手がそこにいるのを当然のことと思ってるかのようだった。男はやはり狸石の肩にもたれたままだし、女は狸石の根元にしゃがみこんでいる。
女――分りましたわ。あなたはやっぱり、あたしよりこの石の方を愛していらっしゃるのね。
男――それがどうだと言うのかね。
女――どうとも言いはしません。ただ、そうだと言うんです。
男――お前はいつもそうなんだ。口先でいくらごまかそうとなすっても、いくら言いくるめようとなすっても、あなたの本心は分っていますと、そういう断定をいつも持ち出す。女の独りよがりの勝手な断定というものは、鉄の壁のようにぎくとも動かない。それに頭をぶっつけると、こちらの頭が砕けるだけだ。だから僕が一歩後にしざると
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