や、そんな気持ちで言ったんじゃないよ。」
「よく分りました。仮面には生理的変化はございません。」
私は口を噤んだ。いきなり抱きついたり接吻したりすれば、私の粗忽な言葉も冗談になってしまうかも知れなかったが、彼女から私を押し距てるものが何かあった。それは、程好きを守るという私の主義だったであろうか。
私はウイスキーに程好く酔ったが、彼女とはもう融和の出来ない気持ちで、その室を出た。封筒に入れた一万円の紙幣を、黙って彼女の机の上に置いてきた。そのようなものを前以て用意していたことを、その時はっきり意識して、頭は熱くなり心は冷え冷えとした。
京子は会社をやめた。他に転勤したものらしい。私へは改まった挨拶もなく、私の方からも手を差延べようとはしなかった。然し、彼女のことは妙に心の隅に残った。それが当然のことかも知れないが、どこかに曇りが出来たような感じだ。そして私は、自然的にもまた故意にも 会社では[#「故意にも 会社では」はママ]すべてに冷淡な態度を取った。口はあまり利かず、笑うことは少く、事務はのろのろとやり、誰にも迎向せず、誰にも逆らわなかった。京子の退職と関連して、私に向けられる視線はなお執拗になったが、私はそれをも無視した。
ところが、或る日、事務の処理にちょっと手間取り、而もその日のうちに片附けておきたかったので、一時間ばかり居残って仕事をした。
そこへ、西山さんが茶を持って来てくれた。
「御勉強ですな。」
善良そうな笑顔をしている。彼はしばしば居残って仕事をするほどの勤勉家である。もう五十歳を越した小柄な男で、いつもにこにこしていて、何の屈託もなさそうで、どの点から見ても善良そのものの感じだ。私が仕事を終えたのを見届けて、茶を持ってきてくれたものらしい。
西山さんは私のそばに腰を下して、私と同じく茶を飲み煙草をふかした。
「お淋しいでしょう。」と彼はぽつりと言った。
私が何のことか分らずにぼんやりしてると、京子さんが会社をやめたんで……と事もなげに言ってのけるのである。それから一つ二つ世間話をして、彼はまた事もなげに尋ねた。
「あなたはだいぶ借金があるとのことですが、いったい、全部でいかほどになりますかな。」
全く世間話の調子なのである。会社の多くの者が問題にしてる私の借金のことも、善良な西山さんには全くの日常茶飯事らしい。私は曖昧な返事で
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