えることにもなっていた。買えるような金は到底なかったが、然し買うことも出来るということは嬉しい希望をもたらしてくれる。
僕は、恋人にでも逢いに行くような気持で、その椎の木を見に行ったものだ。木戸の鍵をあけて中にはいると、頭の上すれすれに、椎の枝葉が、百坪ほども伸び拡っているのだ。それは青葉の殿堂で、美しい日の光の斑点が天井一杯に戯れているし、凉しい風がかなた田端辺の高台から吹いてくる。
そして或る時、途中で竹山に出逢ったので、彼の頭にはよい影響を与えるかも知れないと思って、その椎の木のところへ連れていった。果して、竹山の喜びかたは大変なものだった。幹に手を廻してみたり、低い枝に登ってみたり、青葉天井に見入ったりして、ただ感歎し続けていた。新たに眼覚めたようないきいきとした光がその眼にあった。
僕は彼に木戸の合鍵をやって、いつでもはいれるようにしてやった。
彼は殆んど毎日行ったらしい。そしてその頃が、彼の頭の調子も最もよかった。
それまでは無事だったが、実はもう、そんな呑気なことをしながらも、僕の経済状態は破綻に瀕していた。少々てれる話だが、この土地の小鈴という芸妓と、いつのまにか深くなって、もうどうにもならないほどお互に愛し合っていた。そのために、可なりの金を使っていた。そこへ、或る義理合から、可なり多額の借金の連帯保証人となっていたのが、本人の歿落のために、すっかり僕へかぶってきた。学校の俸給と僅かな文筆の収入とでは、もうおっつかなくなった。負債の利子さえも払いかねた。そこで、椎の木――月に三四十円の借地料だが――それをも切りつめようとした。
竹山には気の毒だが、仕方がないので、そして彼の母親への立場もあるので、嘘を言って、椎の木の土地に買手がついたらしいから、近いうちにあけ渡さなければならないかも知れないと、それとなく暗示してみた。
竹山の精神は、その暗示にひどく敏感に反応した。そして彼特有の鋭い疑念をこめた眼付で、いろんなことを尋ねはじめた。僕がいい加減にごまかしていると、しまいには彼の方から、椎の木の土地を買おうとしている男が分ったと云いだした。
「原野権太郎という男ですよ。」
僕はあっけにとられた。何処に住んでるどういう男か分らないが、とにかく原野権太郎という男だというのである。彼はそれを後にハラゴンとつづめて云うようになった。
「大事な木
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