、どうしてもまず実物をみておいて、それからありのままの写真をとる、そういうことにしなくちゃいけない。それはいろんな程度があって、微妙な差ですからね。ところがこの、人の顔を写真にとることがなかなか厄介で、技術がいるんです。うっかりしてると通りすぎちまうし、横を向いちまう。邪魔するやつもいる。政府では僕のこの研究をねたんで、警察に内命を下したとみえて、しじゅう探偵しています。僕の一番嫌いな奴が、自分の顔をとられるのをこわがって、密告したんです。然し、きっととってみせます。そいつの顔をとるまでは、僕は頑張ってやります。その写真がなければ、研究が完成しません。川村さんは僕のこの研究に賛成して、いろいろ注意を与えて下さるが、ただ一つ僕の腑におちないことがある。凡ては無限で、宇宙の中に何一つ有限なものはない。だから、どんな研究でも、ある範囲内に止めなければ、永久に完成の期はない、とそういうんです。僕の研究も、もうほぼ完成している、とそういうんです。然しそれは、研究者としては卑怯な態度です。現に、僕の研究を邪魔してる奴がいる。僕の一番嫌いな奴がいる。現実にいる。そいつを一枚とれば、それでいいんです。それから先は架空なもので、想像によるものだから、そこで範囲をきめればいいわけです。もう一歩のところです……。」
 良一は少しまいった。好きな方はどうかとききたかったが、どんなことになるか分らないので、黙っていた。青年は一人で饒舌った。間をおいて、考え考え、ただ自分の意見を述べるだけで満足して、良一の意見は求めなかった。
 池の端から切通し下へ出て、その向うのこみ入った裏通りの、小さな家の前に、青年は立止った。表に「御仕立物」という看板がかかっていた。
「ここです。」
 青年は格子戸をあけて、良一を中に迎え入れた。それから自分一人上っていった。良一はあっけにとられて、障子のかげに、土間に立って、待った。

     三

 六畳ほどの茶の間で、長火鉢の向うに、肩のほっそりした女が縫物をしていた。粗末なじみな服装で、少い髪の毛を無雑作に束ねた、四十二三歳の女だった。すっきりした眉と肉のおちた頬に、或る淋しげな品《ひん》をもっていて、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のまるみに、やさしい温良さが現われていた。相当な生活をしてきたひとで、中年になって突然不幸にみまわれて零落し、その運命
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