自分を忘れたように、板場の奥に引込んでいたが、一人きりになると、俄にぞっと震えて、それから急いで後片付をすまし、電燈を消したが、板場の奥の一つだけを残して、そこの火鉢の上にかがみこんでじっと考えに沈んだ。
 いつまでも彼女は身動きもしなかった。火鉢の火にぼんやり眼をすえて、心で、何か聞き入り見入ってるようだった。
 恐らく故郷のことでも、潮風のことでも、思い出していたのだろう。
 彼女の父親が難破して死んだのは、彼女の十歳の時だった。それから彼女が小学校を終えた翌年、母親は感冒から肺炎になって死んだ。彼女は近くの町に出て、料理屋の女中になった。一年半ばかりでそこを逃げ出して、東京で折箱屋をやってる伯母を頼ってきた。伯母の家で、五年間手荒い仕事に骨身おしまず働いた。それから伯母のところがうまくいかず、店をしまうことになった時、彼女は女中奉公に出た。小さな請負師の家で、給金もろくに貰えなかった。彼女は自ら周旋屋にかけこんで、伯母の懇意だった人に身許引受人となってもらい、二三転々して、そして只今の芳枝さんの家に来たのだった。彼女は気は利かないが、その代り正直だった。何か荒々しいものを内にもっていて、そして表面うすぼんやりしていた。
 彼女は男のように腕組みをして、火鉢の上にかぶさりて、じっと考えこんでいた……。
 俺は彼女のその瞑想を尊敬して、ただ見守っていてやった。
 二時頃だったか、二階から足音がおりてきた。静かな足音だった。片野さんと芳枝さんだ。二人とも黙っていた。芳枝さんは裏口の戸をあけた。
「じゃあ、きっとね。」
「大丈夫。」
 だが、片野さんは力なさそうだった。芳枝さんの手を握りしめておいて、外に出るとすぐにうなだれて、考えながら歩いていった。
 芳枝さんは戸締りをして、二階に上りかけたが、急に足をとめて、板場の方をすかし見た。そしてちょっと佇んでいたが、つかつかとやって来た。
「そこで、何をしてるの。」
 佐代子は立上った。
「何をしてるのさ、今頃まで起きていて。」
 佐代子は幽霊でも見る様に、惘然として相手を見ていた。
「ばか、何してたんだよ。」
 芳枝さんの細そりした顔が、憤怒に歪んだ。足が震えていた。よろよろと歩みよって、佐代子の頬をひっぱたこうとした。びっくりして俺がその手を遮った、それがいけなかったらしい。彼女は手当り次第にコップをつかんで投げつけ
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