おびっくりしたらしかった。じっと声の方を見つめていたが、やがて、佐代子が銚子を持ってくると、総毛立ったような表情になった。
「ばか、まだ起きてろのか。」そして彼はちょっと息をついた。「なんだって寝ないんだ。寝てしまえと云っといたじゃないか。僕は仕事をしてるんだ。人が起きてると邪魔になるんだ。君がそんなところに起きてるもんだから、見給え、仕事が出来なくなってしまった。何をまごまごしてるんだ。僕を泥棒だとでも思ってるのか。ばかな、誰が持ち逃げなんかするものか。持ち逃げするような気のきいた品物が一つだってあるかい。いやに忠義ぶって、とんちきめ、起きてるなら起きてるで、肴でも拵えてこい。何かあるだろう。おい、なぜ黙ってるんだ。御新香でもなんでもいい、持ってくるんだ。それに酒だ。早くしないか。早く寝ちまうんだ。寝ろったら……。」
ふだんおとなしい片野さんが、怒鳴りだしたのには俺も驚いた。佐代子はすっかり面喰って、まごまごして泣き出してしまった。泣きながら、酒の用意をしだした。
「気のきかない奴ばかり揃ってやがる。」
片野さんは立ち上って、よろけながら下駄をつっかけて、便所にいった。
片野さんは便所から戻ってくると、電燈のきえてる板場の方をすかし見た。そこの隅っこで、佐代子が、泣きながら何か用をしていた。
「もういい、もういい。なんだ、泣いてるのか。ばかだな。」
片野さんは寄っていって、彼女の肩に手をかけた。何かびくりとしたようだった。
「泣く奴があるか、ばかな。こっちいこいよ。」
佐代子はなおすすりあげた。
「もういいったら……。」
片野さんはその肩を抱いていた。佐代子は片野さんの胸によりかかるようにして、袂を顔に押しあてながらされるままになっていた。
片野さんは彼女を抱いたまま、座敷に戻ってきた。そこにつっ伏した彼女を引きよせて、膝に抱きあげた。きょとんとした顔付だった。それから急に、両の腕に力をこめた。
まるで意外なことなので、俺は呆気にとられた。あんなに嫌っていた佐代子、足の短い、頸筋の頑丈な、反歯な彼女を、片野さんはしっかと抱きしめてるのである。佐代子はもう泣きやんで、父親にでも抱かれるような調子で、片野さんに全身を托しているのである。眼をつぶって身も心も投げ出してるような様子だ。片野さんの歯が彼女の反歯にふれあって、かちかち鳴る音がした。
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