野の幻影に悩まされた。そして遠廻しにあてこすりを言ったものだが、或る時、気にくわぬことがあって、中野との関係を詰問した。彼女は笑って取り合わなかった。中野はただ酒を飲みに来る客というだけで、それ以外の関わりは何もないと、頑強にそして平然と否定した。
「ただ、耳を舐められただけよ。」
それが、何のことだかおれには分らなかった。
「もっとはっきり言えよ。」
「だから、耳を舐められただけ。」
或る夜のこと、他の酔客も立ち去って、中野一人となった。冗談口を利いてるうちに、中野はいつしか黙りこんで、それから、実はたいへん気にかかる秘密事があると囁いた。
「耳をかしてと言うから、あたし、スタンドの上にのりだしてる中野さんの方へ、耳を向けたわ。すると、ただ熱い息だけで、何の声もしやしない。そして、耳朶に何かさわったようで、それから、急にくすぐったくなったから、びっくりして飛び上った……。それだけ。」
「それから……。」
「中野さん、笑ってるから、ばか、と言って、睨みつけてやったら、しょげてたわよ。まるっきり子供ね。」
その、再話ではあるが、ばかという言葉がへんにやさしく響いたのを、おれは心に留めた。
「いったい、耳を舐められたのか、噛まれたのか、どっちだい。」
「舐められたのよ。噛まれたんなら、すぐに分るじゃないの。も一度、うっかりしてる時に、舐められたことがあるわ。でも、それっきりよ。もうあたしの方で用心してるんだから。」
二度あったとしたら、三度あったかも知れないのだ。それはとにかく、まあ普通なら、頸筋に接吻するなり、耳にきつく噛みつくなり、そうするところを、耳の下っ端をそっと舐めるなどとは、如何にも中野のやりそうなことだ。而もその耳朶たるや、地肌にひきつられてる下等な下品なものなんだ。それを敢て舐めたり舐めさせたりするところに、おれの思いも及ばない濃厚な情感が、二人の間にあるのかも知れない。
もともと、おれが喜久子に溺れこんだのも、あの中野卯三郎のせいだった。
喜久子、前田喜久子が、二年半の間、満州で何をしていたかは、おれにもよく分らない。日本人相手の料理屋をしてる伯母さんの家で、帳場や座敷の手伝いをしていたということだが、まあそれとしておこう。終戦になって、程へて、彼女は東京に帰って来た。伯母さんは体を悪くして、田舎にひっこんだ。喜久子は一人で酒場を初めた。――建物払底の折柄だ。都心近くのある半焼けのビルも、急速に修復されて、幾つもの事務所をぎっしりつめこんだ。屋上に小さな料理店が作られ、それが更に建て増されていった。その一隅に、ささやかな喫茶店があった。そのような場所では、一向に客足がつかなかった。それを、喜久子は伯母さんとその知人との世話で譲りうけてもらい、酒場に改造した。木の腰掛を置き並べたスタンド酒場で、通勤の少女が一人、通常の酒類にちょっとしたつまみ物、註文によっては同じ棟の料理屋から有り合せの物が取り寄せられる。帳場の奥に、彼女は寝室を一つ持っている。すぐ隣りには、中年の夫婦者が寝泊りしている。地階にも二家族住んでいる。ビルのこととて、夜間の戸締りは厳重だし、不安なことはない。――だが、喜久子は、その屋上から平地へおりて暮したがっている。
「家を一軒持ちたいんですけれど……。」
懇意な客に彼女はよくそう言った。
然し実際、彼女はそこに家を持っている。
「だって、こんなの、小鳥の巣みたいですもの。」
家が小さいという意味ではなく、屋上の高いところにあるからだ。
彼女は美人とは言えないが、まあ尋常な顔立だし、見ようによっては男の心を惹かないこともない。大柄だから小鳥とはおかしいにしても、もしも単に鳥であったならば、その鳥籠を平地に設けてくれる者がないとも限らない。だが彼女には、横着とも捨鉢とも見えるような鈍重さがある。肉体的な重みだ。昔は、かりにも「バー」と名のつく店の「マダム」は、何等かそれ相当なたしなみや気転を備えていたものだが、敗戦後はたいてい、「酒場のお上さん」となってしまった。つまり肉体がまる出しになったのだ。喜久子も、スタンドの向うにのんびり構えて、大きく二重にふくらました前髪を額の上にのっけ、大きな乳房を乳当もせずにぶらさげ、下品な耳朶を若い男にしゃぶらせている。――もっとも、閏房などでなく店先で、彼女の耳を舐めるような芸当は、中野以外の者にはなかなか出来なかろう。
あの晩、おれは、中野の言語素振りに殊に気を引かれた。――いつしかおれ達だけになって、喜久子もいっしょに、三人でビールやウイスキーを飲んでいた。彼女は客の杯を受けることはあまりなかったが、時刻がたって馴染みの者ばかりになると、ずいぶん飲んだ。ビルの屋上のちょっと厄介な場所なので、店開けは早かったが、九時過ぎにはもう客足は絶えるの
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