蘇生
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)象《すがた》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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人物
高木敬助………二十四歳、大学生
中西省吾………二十五歳、大学生、敬助と同居人
山根慶子………二十一歳、敬助の自殺せる恋人
同 秋子………十八歳、慶子の妹
村田八重子………二十一歳、慶子の親友、省吾と許婚の女
其他――老婆(六十三歳、敬助と省吾との召使)、看護婦、医師、高橋及び斎藤(敬助の友人)、幻の人物数人
[#ここで字下げ終わり]
深い水底に沈んだ様な感じだった。何の音も聞えず、何の象《すがた》も見えなかった。ただ盲いた一種の快さが深く湛えていた。と、何処からともなく明るみが差込んできた。その明るみが彼を上へ上へと引上げようとした。然し彼の後頭部は鉛で出来ているかの様に重かった。そして上へ引上げようとする明るみの力と、下へ沈ませようとする後頭部の力とが、暫く相争っていた。やがてその両方の力が平均すると、何か張切った綱が切れたような気がした。と急に明るくなった。――敬助は眼を開いた。
黒い紗の布を被せた電球のタングステン線が見えた。それをじっと見ていると、胃袋の底から重苦しいものが逆にぐっと喉元に込み上げて来た。息がつまるような気がした。で両肩に力を入れてその重苦しい固まりを押え止めると、胸から一人でに大きい息が出た。あたりはしいんとなった。
輪郭の線が幾つにもぼやけた二三の顔が、彼の方へ覗き込んでいた。眼ばかりが馬鹿に鋭く輝いていた。そのうちの一つが急にゆらりと動いた。すると何か大きい物音がして、耳にがあんと反響して、頭の底まで震え渡った。
その響きが静まると、意識がはっきりして来た。先ず天井板が眼にはいった、板と板との重ね目が馬鹿に大きくなって、それから人が三人坐っていた。
それだけの簡単な光景が、強く彼の頭裏に飛び込んできた。と其処には前から深く刻み込まれていた別の光景があった。そしてその中に新らしい光景がぴたりと嵌りこんだ。二つが一つのものになってしまった。ただ何か一つ足りないものがあった。眼球をぐるりと廻して眺めると、人数が一人足りないことが分った。「誰だったかしら?」と彼は考えた。すると眼がくらくらとした。
「気がついたか!」
そういう声がした。見ると其処には中西が居た。婆さんも居た。も一人若い女が居た。見覚えのあるような顔だった。「あそうだ!」と彼は思った(然し実際は誰だか分らなかった)、そして身を起そうとした。
「お静かにして被居らなくては!」とその女がいった。そして皆で彼を元のように寝かしてくれた。その時彼は初めて、自分が蒲団の中に寝ていること、全身の関節に力が無くて骨がばらばらになってること、中西と婆さんと看護婦とが枕頭《まくらもと》についていること、それだけのことを感じた。
何故《なぜ》だか分らなかった。然しそれが至極当然なことのような気がした。
「気がついてくれてよかった。どんなに心配したか分らなかったよ。」と中西がいった。
看護婦が手を上げた。猫が顔を撫でる時にするような恰好だった。
「静にしてい給えよ。」と中西はいった。そして彼は乗り出していた上半身を急に引込めた。
あたりがしいんとなった。何処かでひたひたと水の垂れるようなかすかな音がしたが、それはすぐに止んだ。「夜だな」と彼は思った。然し時間というものに対して妙な気が起った。時の歩みが全く止ったのか、または同じ瞬間が永続しているのか、どちらか分らなかった。二つは同じようなものであり乍ら、非常に異ったもののように思われた。そしてその二つの間の去就に迷っていると、「夜だな」という感じが遠慮なく侵入して来た。「夜!……夜!」そう頭の中で不思議そうにくり返していると、夢を見ているような心地になった。すると次には、夢を見たような心地に変った。そして自然に頭がその方へぐいぐい引ずられていった。腹の中が急にむかむかして来た。彼は口の中にたまった唾液を呑み下した。すると何かふくよかな匂いが鼻に感じられた。彼ははっと息をつめた。「慶子《けいこ》さん!」何処かに在る幻に彼はそう叫びかけた。そしてがばと身を起した。
すぐに彼は看護婦と中西とから押えられて、また蒲団の中に寝かされた。いつのまにか幻が消えてしまった。身体の節々が重く痛み出した。そして頭の下には氷枕があてがってあることに気付いた。ずきんずきんと頭痛がして、眼に見る物の線がそれにつれてちらちらと震えた。彼は眼を閉じた。
暫くすると頭の中が真暗になって来た。驚いて眼を開くと、彼の顔を先刻から見つめていたらしい看護婦の視線がちらと外らされた。中西は両腕を組んで首を垂れていた。向うに婆さんが坐っていた。袖を顔に当てがっていた。「何をしてるんだろう?」と彼は思った。そしてふと見ると、皆の後ろの方に火鉢が一つ置きざりにされていた。見覚えのある鉄瓶がかかっていた。口から白い湯気がたっていた。それを見ると全身の悪寒を感じた。彼は夜具の中に肩をすくめた。
「皆火鉢にあたったらどうだい。」と彼は中西の方を見ていった。
「ああ。」と中西は頓狂な声で返事をした。
その時、婆さんが洟をすすった。と思うと、急に忍び音に泣き出した。腰を二つに折って、膝の上に押し当てた両肩をゆすって、「おう、おう、おう!」というような押えつけた泣き声を洩しながら、その度に赤茶けた髪の毛が震えた。暫くすると、看護婦もぽたりと涙を膝の上に落した。
敬助は驚いた眼を見張った。俄に夜の静けさが深さを増したような気がした。そしてその寂寥の底に、永く、本当に永く忘れていた面影が浮んできた。眉を剃り落した慈愛に満ちた母の顔が室の薄暗い片隅にぼんやり覗いていた。彼は何故ともなく母が死んだのだという気がした。それを皆が泣いているのだと思った。然し彼はどうしても泣けなかった。何だかほっとしたような安心をさえ覚えた。するとその母の側に、厳めしい父の顔が現われた。彼は何とか言葉をかけようと思った。然し喉の奥まで言葉を出しかけた時、父と母とは、じっと室の入口の襖の方を見た。梯子段に誰か上って来る足音が聞えた。静かな低い足音だった。彼もその方を見つめた。すると静に襖が開いて、一人の女が其処に現われた。「おや!」と思うと、凡ての幻は消えてしまった。しいんと引入れられるような静けさになった。するとまた新たに梯子段に弱い足音が聞えた。彼はその足音に覚えがあった。然し誰の足音だか思い出せなかった。でじっとそれに聞き入っていると、やがてその足音は梯子段を上り切って、襖を開いた。慶子の姿が現われた。彼女は真直に彼の方へ歩いて来た。眼を上げると、彼女はにこっと微笑んだ。彼は宛も電光に打たれたような感じがした。一時に凡ての幻が消え失せて、頭の中に刻み込まれたまま忘れていた彼女の最後の笑顔が、まざまざと其処に据えられた。
唇を上と下と少し歪めて、きっと食いしばっていた。口の一方の隅が平たく緊張して、他方の隅には深い凹みが出来ていた。白い歯が二本ちらと唇の間から見えていた。何という苦悩の口だったろう! そして眼が異様に輝いていた。彼女の眼はいつも冷かな鋭い光りを持っていたが、その時は魂の底までも曝け出したような奥深い光りに燃えていた。黒目は小さかったが、瞳孔が非常に大きかった。凡てを吸いつくすと同時に凡てを吐き出すような熱い乱れた光りが在った。何という残忍な眼だったろう! それに、その眼とその口とを包んだ頬の曲線はしなやかにくずれていた。心持ちたるんだ頬の肉が真蒼だったが、凡てをうち任した柔かな襞を拵えていた。額には清らかな色が漂っていた。何という信頼しきった顔だったろう! 而もそれ全体が微笑んでいたのだ。
敬助は息をつめた。彼女の笑顔が頭の中でふらりと動いたかと思うと、彼の眼には赤いものが見えた。
「あッ!」と彼は覚えず叫んだ。そして起き上った。
中西が急に彼の立ち上ろうとする肩を捉えた。
「静かにしていなけりゃ……。」
「放してくれ給え、放して!」そして彼は昏迷した眼付で室の中を眺め廻した。書棚の前に押しやられた机の上には、何やら一杯のせられて、白い布が被せてあった。床の間の軸も物置もいつもの通りになっていた。自分は蒲団の上に坐って、中西と看護婦とから肩を捉えられていた。婆さんが火鉢の側につっ立っていたが、また静に坐ってしまった。
彼は深い溜息をついた。肋膜のあたりが急に痛み出した。それでまた薄団の中に横になった。電球に被せてある紗の布が何だか不安だった。
「あの布《きれ》を取って下さい。」と彼は云った。
看護婦が立ち上ってそれを取り払った。
室の中は明るくなった。眼がはっきりしてきた。と共に頭の中が急に薄暗くなってきた。意識の上に深い靄がかけているような気がした。凡てのことが夢のような間隔を距てて蘇ってきた。彼は眼をつぶった。そして静にその光景をくり返した。
凡ては底の無いような静けさに包まれていた。
――敬助は机に片肱をもたして坐っていた。慶子は彼の方へ肩をよせかけて坐っていた。二人の前には火鉢に炭火がよく熾っていた。夜はもうだいぶ更けているらしく、あたりはひっそりと静まり返っていた。何の物音も聞えなかった。二人の息さえも止まったかと思われる程だった。その時、急に慶子の呼吸が荒々しくなってきた。敬助は驚いて顧みると、彼女は眼を閉じて石のように固くなっていた。眉と眉との間に深い皺が寄っていた。それは彼女が何か苦しい思いに自分と自分を苛《さいな》む時の癖だった。乱れた荒い呼吸が、小さな鼻の孔から激しく出入していた。敬助ははっとした。彼女のそういう様子のうちには或る強い恐ろしいものが籠っていた。
――「どうかしましたか。」
――何の答えもなかった。
――敬助は彼女の肩を捉えて激しく揺った。「云って下さい。何でもいいからいって!」
――慶子は眼を開いた。そしてじっと彼の顔を見た。
――「もうお別れする時ですわね。」
――「えッ! それではこれほどいってもあなたは私が信じられないんですか。私達二人の心が信じられないんですか。」
――「信じています。信じています。信ずるから申すのです。」
――彼女のうちには、あらゆる意志と感情とを一つに凝らした或る冷かなものがあった。敬助はいつもそれに出逢うことを恐れた。そしてその時は一層強い衝動《ショック》を受けた。或る何ともいえない石の壁にぶつかったような気がした。彼は苛ら苛らして来た。そして自分の苛ら立ちに気付けば気付くほど、益々慶子は冷たく落ちついてくるようだった。まだ自分は彼女に強い信念を与えることが出来ないのか、どうして自分達はただ一つの途に落ち着いて未来に進むことが出来ないのか! 彼はくり返して、愛の信念を説いた、愛の力を説いた。その間彼女は黙って聞いていた。そして彼が口を噤むと、はらはらと涙を流した。「許して下さい!」そう彼女は声を搾って云った。
――何を許すことがあったろう! 彼女には前に恋人があった。然し彼女はその愛のうちに男の方に虚偽があるのを知るや、男を捨ててしまったのではないか。愛に一点の隙間をも許さない彼女の態度は純真なるものではなかったか。またそのために家の中に於ける彼女の地位が危くなってること、その男のために彼女の両親が未だに時々困らされていること、そういうことは敬助も凡て知って許していたではないか。またその他に彼女の身の上に何か暗いものがあっても、彼女の心が一つにさえ燃えていればいいと幾度もくり返して云ったではないか。そして敬助は何も尋ねないで、二人の心をただ一つの愛に燃え切らせることばかりをつとめた。その一筋の心で彼は故郷の両親へあてて長い告白の手紙をも書いた。両親からは拒絶の返事が来た。近々伯父が上京する由まで書
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