く緊張して、他方の隅には深い凹みが出来ていた。白い歯が二本ちらと唇の間から見えていた。何という苦悩の口だったろう! そして眼が異様に輝いていた。彼女の眼はいつも冷かな鋭い光りを持っていたが、その時は魂の底までも曝け出したような奥深い光りに燃えていた。黒目は小さかったが、瞳孔が非常に大きかった。凡てを吸いつくすと同時に凡てを吐き出すような熱い乱れた光りが在った。何という残忍な眼だったろう! それに、その眼とその口とを包んだ頬の曲線はしなやかにくずれていた。心持ちたるんだ頬の肉が真蒼だったが、凡てをうち任した柔かな襞を拵えていた。額には清らかな色が漂っていた。何という信頼しきった顔だったろう! 而もそれ全体が微笑んでいたのだ。
敬助は息をつめた。彼女の笑顔が頭の中でふらりと動いたかと思うと、彼の眼には赤いものが見えた。
「あッ!」と彼は覚えず叫んだ。そして起き上った。
中西が急に彼の立ち上ろうとする肩を捉えた。
「静かにしていなけりゃ……。」
「放してくれ給え、放して!」そして彼は昏迷した眼付で室の中を眺め廻した。書棚の前に押しやられた机の上には、何やら一杯のせられて、白い布が被せてあった。床の間の軸も物置もいつもの通りになっていた。自分は蒲団の上に坐って、中西と看護婦とから肩を捉えられていた。婆さんが火鉢の側につっ立っていたが、また静に坐ってしまった。
彼は深い溜息をついた。肋膜のあたりが急に痛み出した。それでまた薄団の中に横になった。電球に被せてある紗の布が何だか不安だった。
「あの布《きれ》を取って下さい。」と彼は云った。
看護婦が立ち上ってそれを取り払った。
室の中は明るくなった。眼がはっきりしてきた。と共に頭の中が急に薄暗くなってきた。意識の上に深い靄がかけているような気がした。凡てのことが夢のような間隔を距てて蘇ってきた。彼は眼をつぶった。そして静にその光景をくり返した。
凡ては底の無いような静けさに包まれていた。
――敬助は机に片肱をもたして坐っていた。慶子は彼の方へ肩をよせかけて坐っていた。二人の前には火鉢に炭火がよく熾っていた。夜はもうだいぶ更けているらしく、あたりはひっそりと静まり返っていた。何の物音も聞えなかった。二人の息さえも止まったかと思われる程だった。その時、急に慶子の呼吸が荒々しくなってきた。敬助は驚いて顧みると、彼女は眼を閉
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