彼は前後を身廻した。室の中は静まり返ったような気がした。そして思わず「慶子さん!」と叫んだ。声には出なかったがそれが室の中一杯に反響したようだった。「慶子さん、慶子さん!」そういう響きが四方から起ってきた。そして「慶子は死んだ」という感情が現実の姿を取ってまざまざと現われてきた。
彼は急に起き上った。皆疲れきった眠りに陥っていた。機会は絶好だった。彼は立ち上ろうとした。然し全身に力がなくてまた其処に屈んでしまった。その時彼の頭にちらと閃めいたものがあった。彼は書棚の前に匐い寄って行った。そして静にその下の抽斗から懐剣を取り出した。鞘を払うと、刀身《とうしん》は鍔元に一点の錆を浮べただけで青白く輝いていた。彼は陰惨な笑いを顔に浮べた。そしてまたそっと蒲団の上に匐い寄っていった。
その時、縁側の障子にはまった硝子板の一枚から、何か黒いものがじっと室の中を覗き込んでいた。彼はぞっと頭髪を逆立てた。そして我を忘れて、いきなり手に持った懐剣をそれに目がけて投げつけた。硝子の壊れて飛び散る激しい物音が家の中に響き渡った。
婆さんと看護婦とが同時に飛び起きた。隣りの室から寝巻のまま中西が飛び込んで来た。敬助は石のように固くなって其処に眼を見開いていた。一瞬間そのままの時間が過ぎた。それから中西は、慴えている看護婦を促して、敬助を蒲団の中に寝かした。
蒲団の中にはいると、敬助は氷枕がいつのまにか普通の枕に変ってることに気付いた。「生きてる!」ということがまざまざと感じられた。眼をつぶると、慶子の幻が眼瞼のうちに浮んできた。
敬助は身を俯向きにして、悶えた。頭の中に慶子の最後の笑顔と「嬉しい!」と云った言葉とが蘇ってきた。而も両腕の中には永久の空虚が感じられた。その空しい両腕で彼は枕にしがみついた。そして泣き出した。嗚咽が後から後からと胸の底からこみ上げて来た。熱い涙が頬に伝わって流れた。
中西は廊下に落ちていた懐剣を拾い上げた。そしてそれを手にしたまま、其処につっ立って、何か云った。然しその声は、敬助の耳には聞えなかった。
夜が明けるまで、中西と看護婦と婆さんとは、敬助の側に起きていた。
絶望と荒廃と寂寥とのどん底につき当ると、敬助の心は其処で止った。後は両手に頭を抱え込んで、つっ伏したまま動かなかった。思い出したように時々、彼は慶子の名を胸の奥でくり返した。そして
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