えた。「然しもう大したことではない。」
 けれどもそれは気の無さそうな声だった。敬助は黙ってしまった。八重子の方へ何か云ってみたかったが、言葉がみつからなかった。
 やがて、中西と八重子とは隣りの中西の室へ立って行った。暫く何か話し合ってるらしかったが、二つの室は壁に距てられていたので、声さえも聞えなかった。敬助は天井板の木目を見ながら、自分達に味方してくれた者は中西と八重子と秋子とだけだったことを思い出した。すると急に慶子の姿が頭に浮んできた。然し遠い夢の中のような気がした。彼はそれに自ら苛ら苛らしてきた。そしてしきりに凡てを近くに呼び戻そうとした。彼の眼はそれに裏切って熱く濡んでいた。
 医者が来た。医者と共に中西と八重子とが戻って来た。
 敬助は初めてその医者の顔を眺めた。年の若い医者だった。髪を綺麗に分けて、短い口髭を生やしていた。切れの長い眼がその顔立によく調和していた。
 敬助は彼に反感が起った。それは彼が年若いせいだった。年若いことに不快を感ずるのを、自ら訳が分らなかった。それでも静にその診察に身体を任した。医者は一通り診察をすましてこんなことを尋ねた。
「何処か痛みはしませんか。」
「痛みません。」
「嘔気は?」
「ありません。」
「頭痛は?」
「しません。」
 敬助は凡てを否定した。然し実際は、そう云われる身体の遠くにその三つを感ずるような気がした。それから彼は次の問いを待った。然し医者は首を傾げたままいつまでも何とも云わなかった。彼はくるりと寝返りをして向うを向いた。
 医者が帰ってしまうと、急にひっそりとした。敬助は眼をつぶった。長い時間が過ぎた。そのうちにうとうととしていると、後ろで声がした。
「私もう参りますわ。」
 八重子の声だった。敬助は驚いてふり向いた。八重子も喫驚したらしかった。彼女は立ちかけた腰をまた其処に下した。
「覚めていらっしたの?」と彼女は云った。
 敬助は何とも答えなかった。そして、彼女の眼が赤く充血していること、頬に血の気がなくて皮膚が荒れていること、髪が乱れていること、凡て不眠から来る様子に彼はその時になって初めて気付いた。
「済みません。」そう敬助はいった。
 八重子はちらと眼を瞬いて俯向いた。苦しい時間が過ぎた。「ではもう行ったらいいでしょう。」と云う中西の言葉に、彼女は初めて顔を上げた。
「ではまた参りますから
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