れるのを彼は感じた。それから一人置きざりにせられたような寂寥を感じて眼を開くと、右の手首を看護婦の手に握られていた。彼はそのまま手を任した。
 看護婦はやがて彼の手を離して、机の上から小さな紙箱を持って来た。そして中から一包の薬を出して彼の方へ差出した。
「薬を召し上れな。」
 敬助は息をつめた。白い紙に包んだ薬を差出してる彼女の顔が、一寸慶子の顔に思えた。とすぐにそれは冷かな看護婦の顔に代った。然し、その薬は毒薬だというように彼は感じた。それは動かし難い直覚のようだった。彼は首肯いた。そして眼をつぶって、白湯と共にその薬をぐっと呑み込んだ。口腔と舌とがざらざらに荒れているのを感じた。それから胃にどっしりと重い響きを感じた。彼は眼を閉じて、もう一言も口を利かなかった。全身に感ずる遠い疼痛のうちに、安らかな気分が漂って来た。表の通りに箱車の通る音がした。あとはまたひっそりとなったが、何処からか遠いざわめきが聞えてきた。彼はそれに耳を傾けて、何の物音だか聞き取ろうとした。然しどうしても分らなかった。
 それから非常に長い空虚な時間が過ぎ去ったような気がした。額のあたりに重い陰影が下りてきた。
 ふと何処からか、かすかな楽の音が洩れてきた。広い野原だった。大勢の男が何か担いで、野原を真直に横ぎっていった。よく見るとその群集に担がれたのは、一人の女だった。乱れた髪の間から白い顔が見えていた。見たこともない美しい顔だった。そして彼はしきりにその見知らぬ女の名前を考え出そうとした。するうちに、その女はいつしか自分と変っていた。群集は自分を柔く担ぎながら、空間を飛ぶように野を横ぎっていった。いつまで行っても野は広茫として際限がなかった。仄かな明るみが大気のうちに湛えていた。そしてその明るみの中に彼は意識が解け去るのを感じた。後はただ茫とした。……
 敬助が眠りから覚めた時、障子には晩秋の日が明るくさしていた。彼はきょとんとした眼で室の中を見廻した。看護婦が向うに坐っていた。中西が寝転んでいた。ぱっとした明るみが、室の中に一杯漲って、凡てを不思議な世界に輝らし出していた。彼は柱から天井から襖までまざまざと眺め廻した。その時彼はふと思い出した。――先刻誰か自分の側に来て、ひそひそと泣いていた。彼は眼を覚そうとしたが、重い靄がどうしても頭から離れなかった。そのうちにまた静になった。

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