落した。彼は思わず眼を開いた。
 室の中にはただ電灯の明るみが澱んで、三人がじっと坐っていた。看護婦は何かの雑誌を膝の上に拡げていた。そして彼は初めて自分が蘇生したのであることを知った。然しそれは夢のような感じだった。凡てが静に落着いてはいたが、何処か不思議な点があった。
「慶子さん!」と彼は心のうちで叫んでみた。「嬉しい!」と何処かで声がした。それが彼の心の底までを貫いた。残酷とも悲痛とも憂愁とも知れない名状し難い感が、俄に彼のうちに上ってきた。あッ! と思うまに、深淵の底に取り残された自分を彼は見出した。もはやどうすることも出来なかった。彼は両手を胸の上に組んで、捩り合した。苦しいものが胸の底からこみ上げてくるのをかきむしりたいような気がした。
「慶子はどうしたろう、慶子は?」彼は身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。
 中西が静に彼の側に寄って来て、彼の手を握っていてくれた。それに気がつくと、彼はその手に縋りついた。
「中西!」
「ああ。」と中西は答えた。
「慶子さんは?」
 中西は何とも答えないで、夜具の乱れたのを彼の肩にまとってくれた。それから何とか云おうとした。
「しッ!」と敬助はそれを遮り止めた。梯子段に人の足音がするようだった。耳を澄すと果して静かな足音が梯子段を上って来た。彼はその足音を知っていた。息を凝らしてその方を見つめていると、襖がすうっと開いた。慶子が立っていた。彼女はただじっと敬助の顔をまともに眺めた。彼は何か云おうとした。と俄にその幻がすうっと彼の胸の中に吸い込まれてしまった。金泥で笹の葉を描いた淡黄色の襖が壁のように閉め切ってあった。
 彼にはぼんやり凡てのことが分った。彼は眼を閉じて、中西の手を握りしめた。
「中西、すっかり僕に話してくれるか。」
「然し今君は……。」
「いやもう大丈夫だ。僕は慶子さんが死んだことを知っている。ただ詳しいことが知りたいのだ。」
 苦しくはあったが不思議にもその言葉は落着いていた。彼は自らそれに心の落ち着きを覚えた。
「うむ、それでは凡て話してあげよう。知っておく方がいいだろう。然し君は今どんなことにもじっと面し得るだけの力があるか。そして……。」
「分ってる。」と敬助はそれを遮った。「理屈はいらない。ただ詳しい事実だけが知りたいのだ。僕は凡てを予期している。云ってくれ、偽りの無い所を
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