よいが、起き上ろうとして、手足をばたばたやった。床に手をつくことを忘れたのだ。ダブルの上衣、ポマードをぬった髪、ぴかぴか光らしてるダンス用の靴、それで尻もちをついて、手足を宙にばたばた泳がしてる様子が、まったく滑稽で、俺は笑いだしたし、他の酔客も笑った。誰も助けにゆく者がない。その時、マダム・ペンギンが、さっと出て来て、彼を抱き起し、大真面目な顔で塵を払い落してやったりしている……。
それからがあのいきさつだ。木村がマダムの体温にふれ、マダムの息を皮膚に受けたのは、恐らくあの時が最初だったろう。ペンギンの胴体がちょっと気に入ったと見える。考えてみれば、マダムが木村を抱き起した時、それだけのこととしては、少し時間が長くかかりすぎたような気がする。蛸が二つからみ合ったら、互に相手のどこかに、必ず、吸盤がふれるものだ。鳥なら羽毛が生えてるけれど、人間ともなれば、蛸と同じに、無防禦の素肌だからね。
「あたし、木村さんといつまでも続くとは思っていなかった。木村さんが浮気なことも知ってたし、あたし一人でないことも知ってた。だけど、まさか、マダムと……。口惜しいわ。マダムは若く見せてるけれど、もう四十すぎよ。だから、マダムの方で熱くなるのは、分らないこともないけれど、木村さんの……気が知れない。気が知れないというより、あたし、口惜しいわ。……口惜しい。」
そんな風に訴えながら、京子は泣いたが、その泣き方が、多分にヒステリックだ。ヒステリックになるのは、年増の女だけとは限らないものらしい。或るいは、年上から年下へと感染するのかも知れない。かりに、マダム・ペンギンと木村とが初めに関係があって、木村が京子へ寝返ったとしたら、マダム・ペンギンのヒステリーは凄いものがあったろう。ところで、二十台の京子から、十台の小娘へ木村が寝返ったとしたら、京子のヒステリーはどんなものだったか、これは俺にも分らない。
京子は女らしい皮肉を言って、バー・ペンギンから他の店へ移った。
「こんな風儀のわるいところにはおられません。」
自分だけは風儀がよいつもりでいる。だから女とは他愛ないものだ。俺がそう言ってからかうと、京子は怒って、留七のトンカツとカキフライをぺろりと食べてしまった。
留七は小さな店だが、ここのトンカツは東京一の大きさだ。美味ではあるが、大皿一杯の大きさだから、容易には食いきれない。
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