よい、と桂介は思った。
「三四尺といっても、火事の時にはたいへん違います。」
 隣家の火事の場合を、カヨは考えてるのである。こちらで新築はしないつもりでも、現在の土蔵の住居に関係があるのだ。それだとすれば、椎の木はたいへん防火に効果があるそうだから、境界近くに椎の木を並べ植えたらよかろうと、桂介は言った。
「椎の木が何の役に立つものですか。一乗寺の大椎さえ燃えてしまったじゃありませんか。いざ火事となれば、立木も却って火を呼びます。」
 空襲の大火のことが、カヨの頭には深く刻みこまれているのである。
 つまらないことを隣家へ談判にも行けないので、桂介は打ち捨てておいた。ところが、カヨ自身で、工事をしてる大工に探りを入れて、建築は境界から六尺ほど引込んだ設計であり、境界には低い四つ目垣を拵える予定であることが、はっきりした。
「やっぱり、お隣りでも、火事のことを考えていると見えますよ。」
 カヨは安心したように眉根を開いた。
 然し、周囲に対するそういう配慮は、カヨとしては特別なことで、たいていは二階の室に閉じ籠っているのである。それは蝸牛の殻のようなもので、彼女はその室を背負い、その室の中に生きてるのだった。
 一階には桂介夫婦と二人の子供とが暮していて、手狭なところから、日用品以外の家具什器の類はみな、二階の片隅の板戸で仕切った中に納められている。それらの物品も、嘗て、罹災者などに分ち与えたり売り払ったりした後の残りだから、大したものでもないが、それをカヨが後生大事に張り番してる、というような恰好に見える。その上、彼女自身、いろんなつまらない物を大切に保存している。
 第一に、大小さまざまなぼろ布が、行李二つほどある。絹布、綿布、洋服地、毛布、などの切れ端で、かき廻すと、絵具箱をひっくり返したような色彩の花が開く。そのぼろ布をためてゆくのが、彼女の楽しみらしい。何に使うという当はないが、ただ、各種の衣裳の象徴なのでもあろうか。それから、桐箱や紙箱にはいってる風呂敷がたくさんある。
 次に、彼女は貨幣をたくさん集めている。小さな仏壇のわきに、白木の平たい箱があって、その中に、手にはいる限りの貨幣を投げ込む。古銭蒐集という趣味ではないから、珍らしいものは殆んどなく、小額紙幣の間合に時折出てくる安っぽい貨幣を、見当り次第に貯えるのであり、桂介や久子から貰ったものが多い。明
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