り、耳がおかしくなったのであろうか。
彼女は穿鑿するように相手の顔色を窺うのである。
桂介は眉をひそめたが、おとなしく説明してやった。
「それは、お母さんの思い違いですよ。」
夜中に眼を覚して、眠れないといっても、長い間眼がさめてるものではない。不眠症で夜通し一睡もしなかった、などと訴える人もあるが、医者に言わせれば、実際は相当に眠ってるものらしい。夜中に眼がさめて、一時間も二時間も時計の音に注意してるつもりでも、実際はその間にうとうとして、時計の音を聞きもらすことがある筈だし、三十分毎の一つの音だけを耳に入れるのであろう。
「それにしても、丁度三十分の音だけ聞こえるというのが、ふしぎだよ。」
それを不思議とするならば、実は、実の笹藪の音をはっきり聞き取るというのが、第一に不思議だった。土蔵の中には、だいたい、屋外の物音はあまり伝わらない筈である。桂介はそれを何度か経験した。まだ子供の頃、暴風雨の烈しい折、建て直し以前の古い家屋がみしみし揺れて、恐ろしくなり、泣きだしたくなり、祖母に連れられて土蔵の中に避難したことがある。土蔵の中にはいると、まるで夢のような心地だった。外に荒れ狂ってる暴風雨の音は、遠くへ消え去ってしまい、土蔵の中はひっそりと静まり返っていて、別世界の感じだった。想像も及ばないほどの不思議さだ。ふだんは、土蔵の中は薄暗い冷々とした不気味な場所だったが、暴風雨の時には、全く安らかな隔離された場所だった。母も一緒に土蔵へはいったことがあるし、あの時のことを、年老いた今でも覚えてる筈である。――その同じ土蔵なのだ。戦災に破損しているし、内部は住居向きに改造してはあるが、それでも土蔵たることに変りはない。入口の扉を閉め切ると、屋外の物音はあまり聞こえなくなる。二階とて同じであろう。実の笹藪の中の犬の足音など、果して聞き取れるであろうか。
然し、そのようなこと、桂介は胸にひめて黙っていた。
そのようなことを知らない久子の方が、桂介に囁くのである。
「お母さんの話、なんだかへんね。」
へんだというのは、遠慮してるので、実は気味わるがってるのである。
カヨに向っては、久子は、皆と一緒に一階に寝ることを勧めた。
カヨはちょっと襟を正すような様子で、きっぱり言うのである。
「わたしが下に寝たら、二階には誰が寝ますか。二階を空け渡すようになったら、この
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