魔ですね。だが、若い枝のようだから、実はなるでしょうよ。」
 そこで、梅はいったい花の方が大切か実の方が大切かという話になって、禅問答のようなことが続いた。
「僕はたくさん実のなる梅が好きですね。」と北川さんは言った。
「僕はたくさん花の咲くのが好きですね。」と竹中さんは言った。
 それは議論じゃなくて、別々のことを勝手に言ってるような調子だった。どちらも、相手の言うことなんかまるで気にもとめず、独語をしてるみたいだ。側で聞いていると、おれはおかしかった。気がへんだとすれば、二人ともそうではないかと思われた。
 そのうちに、お母さんが帰って来た。北川さんは物蔭でお母さんとなにか話し合った。そこで、おれは帰ってゆこうとしたが、北川さんから呼びとめられた。
「ちょっと、使いをしてくれないかね。」
 北川さんは紙幣をおれに渡して、牛の煮込み屋から酒を一升ほど買ってきてくれと言った。ついでに、二百円ほど借りがあるから払ってくれと言った。
「母が金を拵えてきてくれたから、助かったよ。」
 北川さんは嬉しそうに笑った。
「借りてきたんですか。」とおれは思わず言ってしまった。
 北川さんはおれの顔をじっと見て、それから、さも重大な秘密でも洩らすように囁いた。――小さな貸家を一つ持っていたが、それを、親戚に頼んで、買って貰った。十万円になった。但し、借家人がはいっているので、それが立退いて空け渡しするまでは、月々三千円ずつ貰うことになっている……。
 それで、北川さんの暮し向きのことがおれにも分ったが、ちょっと淋しかった。そんな売り食いの仕方は自慢になるもんじゃない。だが、北川さんは自慢そうな笑顔をしているんだ。
 おれが眉根をしかめてみると、北川さんは何を勘違いしたか、おれの肩を一つ叩いて言った。
「とにかく、梅の木を持って来てくれたんだから、酒でも出さなくちゃなるまい。それに、両親が来るというから、そうなったら、ちと大変だ。米も足りないし、御馳走はなにもないし……ひとつ奔走してくれよ。」
 言うことは道理だが、考えの根本がどうもおかしい。竹中さんにかぶれたのかも知れない。
「万事引き受けますよ。」
 安心さしておいて、おれはまず、牛の煮込み屋の用だけは果してやった。だが、それだけで逃げるわけにもゆかない。なんだか気の毒だ。度が少し曲りかけてるお母さんを手伝って、台所の用をしてやった。
 ささやかな酒宴がはじまった。竹中さんもいけるたちらしい。酒がまわるにつれて、妙な話題が出てきた。おれは台所の用をすまして、縁側に置いてある電熱器で、手製の煎餅をやきながら聞いていた。
 ――世の中は隙間だらけだというのだ。原子とか分子とかいうものにも、隙間がある。そういうもので出来てる物質も、隙間だらけだ。――天井にも床にも、壁にも、隙間がある。塀にも隙間がある。――人の注意にも、隙間がある。心にも隙間がある。――だから、そういう隙間をねらえば、どんなことだって出来る。大きな木だって持ち出せる。人間だって持ち出せる。
 まあこんな風な、何もかもごっちゃにした話だが、中心はどうやら、あの梅の木にあるらしかった。あれは竹中さんの庭にでも植わってたもので、それをひそかに持ち出す興味と苦心とが、面白かったのだろう。――そんなことを問題にしてる竹中さんは、たしかに気が少しへんだ。話にのってる北川さんも、謂わば共犯者で、ちっとおかしい。
 然しその話は、終りまで続かなかった。玄関に人が来て、お母さんは暫く話をし、それから、玄関と茶の間との間を往復して、その人を茶の間に通した。
 竹中家のいろんな用をしてる番頭格の、山口という人だった。痩せた小柄な中年者で、禿げあがった額の下に、小さな眼が鋭く光っていた。一目見た時からおれはこの人が嫌いになった。山口さんなどとはどうしても言えない。山口と呼び捨てにするより外はない。
 山口は一座に会釈をして、言った。
「これは、お邪魔を致します。わたくしはただ、貞夫さんだけにお目にかかれば宜しいので、外に用はございません。」
 最初から角のある言い方だ。おれはどきりとした。だが不思議だった。当の竹中さんも、北川さんも、黙りこんだだけで、平気な顔をしている。
 山口は竹中さんの方を向いて、ずばりと言った。
「あなたをお迎えにあがったんですが、お帰りなさいましょうね。」
「ああ帰るよ。」
 おれにまで丁寧な竹中さんとしては、これはまた至極ぞんざいだ。山口は大きく頷いた。
「それで安心致しました。御両親もたいそう心配しておられますし、これから……。」
「あ、お父さんとお母さんは、いつみえるかね。」
 山口は小さな眼をしばたたいた。
「こちらへ来られることになっていたが……。」
「とんでもないことを仰言います。わたくしが代理でお迎えにあがったんでございますよ。」
 両親が来るというような竹中さんの言葉は、山口の憤慨を爆発させたらしい。彼は俄にまくし立てた。言い廻しは丁寧だが語調は荒かった。――昨日から貞夫が帰らないので、家の者は心配していた。貞夫はまだ充分に病気がなおってもいないし、物騒な時節柄だ。気をもんでいると、一昨日、庭の梅の古木を、植木屋が掘り返して、どこかへ運んだことが分った。それが貞夫の指図だ。植木屋をつきとめて、こちらだという見当がついた。それで、迎えに来た。いったい、どういう量見だったのか。梅の木の一本や、二本、惜しくはないが、なんで泥坊みたいな真似をするのか。誰かにそそのかされたのか。来てみると、しゃあしゃあと酒なんか飲んでいる。茶屋小屋ならまだしも、ここがどういう家か、よく考えてみたら分る筈だ。もと邸にいた娘の病気見舞いなら、見舞いのような方法もあろう。こちらだって迷惑だろう。近所に電話がないわけではあるまいし、泊まるなら泊まると、邸に電話でもするのが当り前なのを、いつまでも引き留めて酒のもてなしをするなど、以ての外だと、非難されても仕方がなく、そういう迷惑をこちらにかけては済むまい……。
 山口は竹中さんに向ってだけ話したのだが、次第に、北川さんへのあてつけが多くなった。直接に北川さんへは口を利くまいと決心してるようだ。その全体が、特別な話し方で、真綿に針を包んでいる。
 北川さんと竹中さんは、黙りこんだまま、知らん顔をして、煙草をふかし酒を飲んでいた。お母さんは奥の室の病人の方へ行った。おれはいらいらしてきた。煎餅をこがした。

 庭にはもう夕陽が薄らぎかけていた。山口はそちらへ眼をやって、梅の木を見付けた。
「ほう、梅はやはりこちらへ来ているようですなあ。」
 山口は無遠慮に立って来て、縁側の硝子戸を大きく開けて、庭を眺めた。
 その時、これもやはり隙間なのか、竹中さんは北川さんに小声で言った。
「お邪魔しました。これで失礼します。」
 お辞儀をするとすぐ、竹中さんは立ち上って、実にす早く、廊下へ出てしまった。山口が振り向きかけたとたんに、おれは言った。
「寒いなあ。」
 大きく開けてある硝子戸を、力一杯にぶっつけてやった。真鍮のレールで滑りがよかった。その戸をまともに受けて、山口はよろけ、縁外に飛び落ちた。
「乱暴な……。」
 山口はおれの方を見たが、おれはそっぽを向いていた。彼は何と思ったか、それきりで、額と腰をさすり、縁にはい上って、足袋底の泥を丁寧にこすり落した。それから席に戻って、室の中を見廻した。誰も口を利かなかった。
 玄関の方に竹中さんとお母さんの声がした。山口は出て行った。竹中さんはもう帰りかけていた。
 二人を送り出して、お母さんは茶の間に来た。
「おかしな人ですよ。つかつかとはいって来て、梅子の枕もとに坐って、早くおなおりなさい、きっとなおります、そう言って、両手をついてお辞儀をしました。可哀そうに、梅子が、ほろりと涙をこぼしたときには、もう室から出て行きかけていました。どういうんでしょうねえ。」
 お母さんは立ったまま話したが、それきりで、病人の方へ行った。
 北川さんは黙りこんで酒を飲んだ。そしておれにもすすめたので、遠慮なくおれも飲んでやった。
 北川さんがへんに考えこんでるので、おれは気を利かせて、やがて出て行った。北川さんとなにか話したいことがあるようだったが、それも諦めて、忘れた。
 それでも、やはり気になって、翌朝、行ってみた。

 台所で、お母さんが食事の仕度をしていた。おれは梅の木を見に行った。朝日がいっぱいさしてるあちらの縁側の、硝子戸の中に、北川さんと妹さんが何か話していた。
 おれは梅の木を見上げた。いろいろな思いが絡んでるので、身内のような気がした。
 北川さんが硝子戸をあけて、おれを呼んだ。
「よく来たね。」
 昨日と同じ挨拶だ。はればれとした顔をしていた。
 だが、それよりも、おれはびっくりした。梅子さんがとても美しかった。近くで見たのは、いや、ほんとに逢ったのは、初めてだ。梅子さんは日向にひきずりだした布団の上に、脇息にもたれて坐っていた。髪はおさげにして編んでいる。※[#「糸+慍のつくり」、第3水準1−90−18]袍にくるまった体はひどく細そりしている。ほんの少女という恰好だ。でも顔は一人前の女で、朝日の光りを受けてるせいか、肌が透き通ってるように見える。眼が黒々として底が分らない。下頬にぽつりと肉のふくらみがあって、小さな受け口だ。その全体がおれにはびっくりするほど美しく思われた。兄さんには殆んど似ていない。しいて探せば、額と耳が似てるぐらいだろう。
 おれがびっくりして梅子さんを見ていると、北川さんは言った。
「梅子は、君を医者よりも頼りにしてるよ。薬より魚の方が好きだからね。」
 おれは顔が赤くなるのを感じた。
「ほんとに、いつも有難いと思っていますの。」
 そう言って、梅子さんは黒々とした眼でじっとおれを見た。おれはへんに口が利けないで、眼を伏せた。
「その代り、お前の、童話を読ませてやったよ。」と北川さんは言った。「そら、お前が考えて、僕が書いたやつさ。」
 梅子さんはただ笑っていた。
 おれはそこにばかのように突っ立ってるのがつらくなって、お辞儀をして去ろうとした。すると、北川さんから呼びとめられた。
「実は、君にまた頼みたいことがあるんだがね。」
「ええ、なんでもしますよ。」
「おかしなことだが、あの梅の木なんだ。」
 北川さんは暫く口を噤んだ。
「あれを君にあげるから、いいように始末してくれないかね。薪なんかにしてしまうのは可哀そうだから、どこかに植えて、やはり生かしといて貰いたいんだ。とにかく、あれをまた掘り起して、ほかへ移すんだ。費用は出すから、頼むよ。」
「あすこに置いといては、いけないんですか。」
「折角のものだから、貰い受けるつもりだったが、あんなことがあっては……。あの嫌な奴さ、あんな奴に汚されては、僕はもう嫌になった。話をすると、梅子も嫌だと言う。どこか遠くへ持って行ってくれよ。」
 おれは首垂れてしまった。初めは意外だったが、その意外が意外でなくなり、北川さんや梅子さんの気持ちが、おれの中にもはっきり伝わってきた。
「分りました。」
 おれはそれだけ言って、くるりと向きを変え、梅の木を眺める風をした。そして眼を手の甲でこすった。涙が出てきてこらえきれなかった。
 なんで悲しいのか、おれにもよく分らなかったが、胸がつまって涙が出るんだ。梅子さんがあまり美しかったからだろうか。春先の感傷のせいだろうか。
 おれはそこらを歩きまわって涙をごまかした。それから、梅の木はおれが貰ってやろうときめた。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「苦楽」
   1947(昭和22)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(
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