おれは顔が赤くなるのを感じた。
「ほんとに、いつも有難いと思っていますの。」
そう言って、梅子さんは黒々とした眼でじっとおれを見た。おれはへんに口が利けないで、眼を伏せた。
「その代り、お前の、童話を読ませてやったよ。」と北川さんは言った。「そら、お前が考えて、僕が書いたやつさ。」
梅子さんはただ笑っていた。
おれはそこにばかのように突っ立ってるのがつらくなって、お辞儀をして去ろうとした。すると、北川さんから呼びとめられた。
「実は、君にまた頼みたいことがあるんだがね。」
「ええ、なんでもしますよ。」
「おかしなことだが、あの梅の木なんだ。」
北川さんは暫く口を噤んだ。
「あれを君にあげるから、いいように始末してくれないかね。薪なんかにしてしまうのは可哀そうだから、どこかに植えて、やはり生かしといて貰いたいんだ。とにかく、あれをまた掘り起して、ほかへ移すんだ。費用は出すから、頼むよ。」
「あすこに置いといては、いけないんですか。」
「折角のものだから、貰い受けるつもりだったが、あんなことがあっては……。あの嫌な奴さ、あんな奴に汚されては、僕はもう嫌になった。話をすると、梅子も嫌だと言う。どこか遠くへ持って行ってくれよ。」
おれは首垂れてしまった。初めは意外だったが、その意外が意外でなくなり、北川さんや梅子さんの気持ちが、おれの中にもはっきり伝わってきた。
「分りました。」
おれはそれだけ言って、くるりと向きを変え、梅の木を眺める風をした。そして眼を手の甲でこすった。涙が出てきてこらえきれなかった。
なんで悲しいのか、おれにもよく分らなかったが、胸がつまって涙が出るんだ。梅子さんがあまり美しかったからだろうか。春先の感傷のせいだろうか。
おれはそこらを歩きまわって涙をごまかした。それから、梅の木はおれが貰ってやろうときめた。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「苦楽」
1947(昭和22)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(
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