三味線を置いて、世間話になると、岡野もそれに加わったので、吉乃はなお気持が隙《ひま》になった。
澄代は酒も少しは飲めた。
「吉乃さん、こんど、隙な時、わたしの家へも遊びに来て下さいよ。わたし、各方面からのいろいろなお客が、一番楽しみなんだから……。家では、すっかり、門戸開放主義なの。その代り、御馳走はありませんよ。栄太楼のうめぼしくらいなら……。」
吉乃ははっとした。彼女はその「うめぼし」が好きで、家でよくしゃぶっていた……。岡野に話したことがあったらしい。疑念の眼付で、岡野の方を見ると、彼は煙草をそっぽに吹かしていた。
「主義はおかしい……。あんなに泥坊を怖がっていて……。」
「いやあね、泥坊は別よ。それと雷……。」
震《ちじ》み上った様子をして、彼女は吉乃の肩に手をかけていた。
「ねえ八重次さん、わたしこんな妹があったらいいと思うわ。似合うでしょう。わたしも背が高い方だし、このひと、おとなしいし、好きよ。」
「あら、そんならあたしは……。こちらの、妹御さん……。おかしいわ……。」
岡野の方を覗きこむ風をして、八重次は吉乃にやさしい視線を送った。
吉乃は澄代の手の下に、首を縮めていた。地位が逆に、こちらが初めからお客のような、座敷の空気ばかりでなく、いやそんなものをすっかり蹴散らして、絡みつくようなしなやかな澄代の手の感触が、彼女の自意識を呼びさます。先程からただ本能的に見て取っていたものが、表面に浮出してくる。……澄代の、袖口を持ちそえて掌《て》を胸に押しあてる嬌姿、自由にしないそうな綺麗な指、頸筋の荒れた皮膚、瞬間に燃え立ったり消えたりする、而も押しの強いその眼差《まなざし》、そしてその底の、疲れのこもった色っぽさ、それから、岡野の、そしらぬ顔をしてやたらに煙草を吹かしながら、澄代の挙動の一つ一つに、魅せられたように惹きつけられてる視線……。
違っていた! 殆んど咄嗟に、本能的なのを意識的にまで、吉乃はそれを感じた。岡野の云うのが本当だ。商売なんかとは、まるで違う。別な、自分の知らない、愛慾の世界だ。清い取引ではない。汚らわしい。一寸した飛沫でも、身体が汚《けが》れる……。
彼女はぞっとして、澄代の手の下から身を引いた。
「わたしが男だったら、こんなひと、どうしようかしら……。」
鋭い火花が、瞬間、岡野の方へ投げられて、あとはさりげなく、酔をかぶった眼付で、彼女は吉乃の方へ寄ってきた。
「逃げてはいやよ。きょうだいだから、ねえ。」そして杯を二つ並べて、「あちらは喧嘩だから、こちらは仲よく……。」
けんで杯のやりとりをしている八重次と岡野の方へ、笑いを送って、自分で銚子を取上げた。
「あら……。」
八重次が急いで手を出そうとするのを、澄代は遮った。
「だめ、だめよ。他人禁制……二人きりで、内緒の話があるの、ねえ。」
吉乃は、妙に横柄な眼付と微笑の口許とで、うなずいて、杯を干した。そして此度は自分で、二つの杯に酒をつぎながら、じっと、明らさまに岡野の方を眺めやった。寝ころんで、何かに打ちのめされたような彼の姿が、ほんとに惨めに見えた。ばか、ばかな人! そう叫んでやりたかった。
が彼女の耳には、澄代の暖い息がかかっていた。
「こんど、一人でゆっくり来るわ、ねえ。」
彼女は夢のようにそれを聞いていた。
「そして……。」
彼女は動かなかった。白々とした額が、石のように冷くなった。その頬辺《ほほべ》を、澄代は指先でつっついた。それから、煙草の吸いさしを、だがさすが用心して火は消して……。
吉乃は飛び上った。頬辺を押えて、いきなり室から出て行った。水で頬辺を冷しに行った。だが、何のこともなかった。念入りに化粧を直して、戻ってきた。
皆の視線が彼女を迎えた。その交錯《こうさく》した十字火の中に、彼女は微笑んではいっていった。矜持! そういった気持が動いた。自分の商品の価値を知ってる商人の誇だ。誰が何と云おうと、誰と取引しようと、清らかな美しい肉体が。躓《つまず》かないでよかった。よく持ちこたえた。けだもの、畜生! そういう叫びを胸の底にひそめて、彼女は、のびのびと首をそらして、善良そうに微笑んでいた。
「いやーね。」八重次が彼女の背を叩いた。「あたしの方がびっくりしちゃったわよ。」
澄代の眼が情熱的に光っていた。岡野は眼を外《そ》らした。
「御免なさい。」
誰にともなくそう云って、吉乃は晴れやかに笑った。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
1929(昭和4)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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