ぶった眼付で、彼女は吉乃の方へ寄ってきた。
「逃げてはいやよ。きょうだいだから、ねえ。」そして杯を二つ並べて、「あちらは喧嘩だから、こちらは仲よく……。」
 けんで杯のやりとりをしている八重次と岡野の方へ、笑いを送って、自分で銚子を取上げた。
「あら……。」
 八重次が急いで手を出そうとするのを、澄代は遮った。
「だめ、だめよ。他人禁制……二人きりで、内緒の話があるの、ねえ。」
 吉乃は、妙に横柄な眼付と微笑の口許とで、うなずいて、杯を干した。そして此度は自分で、二つの杯に酒をつぎながら、じっと、明らさまに岡野の方を眺めやった。寝ころんで、何かに打ちのめされたような彼の姿が、ほんとに惨めに見えた。ばか、ばかな人! そう叫んでやりたかった。
 が彼女の耳には、澄代の暖い息がかかっていた。
「こんど、一人でゆっくり来るわ、ねえ。」
 彼女は夢のようにそれを聞いていた。
「そして……。」
 彼女は動かなかった。白々とした額が、石のように冷くなった。その頬辺《ほほべ》を、澄代は指先でつっついた。それから、煙草の吸いさしを、だがさすが用心して火は消して……。
 吉乃は飛び上った。頬辺を押えて、いきなり室から出て行った。水で頬辺を冷しに行った。だが、何のこともなかった。念入りに化粧を直して、戻ってきた。
 皆の視線が彼女を迎えた。その交錯《こうさく》した十字火の中に、彼女は微笑んではいっていった。矜持! そういった気持が動いた。自分の商品の価値を知ってる商人の誇だ。誰が何と云おうと、誰と取引しようと、清らかな美しい肉体が。躓《つまず》かないでよかった。よく持ちこたえた。けだもの、畜生! そういう叫びを胸の底にひそめて、彼女は、のびのびと首をそらして、善良そうに微笑んでいた。
「いやーね。」八重次が彼女の背を叩いた。「あたしの方がびっくりしちゃったわよ。」
 澄代の眼が情熱的に光っていた。岡野は眼を外《そ》らした。
「御免なさい。」
 誰にともなくそう云って、吉乃は晴れやかに笑った。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1929(昭和4)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング