であなたのことを……。」
彼女が今にも泣き出しそうな渋め顔をしたので、彼は喫驚して打消した。
「分っています。今のは冗談ですよ。」
彼が無言のままぶらぶら歩いてる間、綾子は同じ所に屈み込んで、しきりに河原の石をかきまわしていた。
「何をしてるんです。」
「水中の夢子さんに、綺麗な石をおみやに持っていって上げるつもりですの。」
彼はふと涙ぐましい心地になって、一緒に石を拾った。それから仮橋の方を渡って宿に帰った。
その晩、彼は知らず識らず綾子の面影を心に浮べていた。夢にも彼女のことをみたようだった。
それから二日たって、洋造は東京へ帰った。汽車の窓から彼は、温泉の方を見えなくなるまで見送った。
「俺は綾子に心を奪われたくない。余りに不自然なことだ。」
其後、綾子は静子と一緒に彼の家へ一度遊びに来た。
それだけのことだった。けれど変に忘れられなかった。洋造はそれを自分の最後の清い幻として心の奥にしまい込んだ。余りに奥深くしまい込んでいつしか忘れていった。
それが、妻とああいう話をした後に、ひょっくり浮び出て来たのである。
「あれくらいのことは、世間にざらにあることだ。それを最後の清い幻だなどとして、いつまでも心の中に懐いているほど、俺の生活は陰欝なのかしら。それほど自分の生活から華かなものを絶って、やたらに子供ばかり拵えていて、それでどうなるのだ。」
翌朝になると、また前夜の猫が庭の隅にやって来て、一匹の牝猫に四五匹の牡猫がかかって、皆煤けて泥まみれになって、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。地面を掠めてくる軽い春風に、そのうす穢い尿の匂いまで交っていた。
洋造は嫌悪の念に駆られて、自ら竹竿を持って下りていった。夢中になって脹れ上って、打たれてもびくともしないようなやつを、檜葉や躑躅の茂みの下から、竿の先で突っつき出して、隣家の方へ追いやってしまった。額や背中に脂汗をかいた。
その様子を、空色の洋服に着かえてる冬子が、泣き出しそうな顔で縁側から眺めていた。
「あっちに行っといで。」
叱りつけておいて、彼は眉をしかめながら戻って来た。
「だって、お父さま、可哀そうだわ。」
「他所の猫じゃないか。」
まん円くうち開いた眼の中の、青みがかった白目の縁に、ほろりと透明な水玉が出てきて、それをじっと押え止めるかのように、冬子はあくまでも眼を見開いていた。が……大き
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