」――それから男は、相手の女と出奔してしまって、何等の消息もなかったが、横浜から不意に人を寄来して、子供をくれと云って来た。――「あの女は屹度悪い病気を持ってるんだよ。それで子供が出来ないものだから、この子をふんだくろうとしてるのさ。」
 彼女は話し止めて、膝の子供の頭に頬をすりつけたが、子供がむずむずと動き出すと、いきなり胸をはだけて、乳房を子供の口に含ました。血管が一つ一つ透いて見えるほど、むっちりと張り切った大きな乳房で、子供はそれを、筋目の深くくくれた蝋細工のような片手で、やんわりと持ち添えながら、息もつかずに、咽せ返るほどぐっぐっと飲み下していった。冴えきった冷い月の光が、斜め上から降るように落ちていて、その乳房と手と子供の赤い頬辺とに、蒼白い艶を投げかけていた。
「どんなことがあろうと、子供は生みの母親が育てるのが本当だよ。」と洋造は云った。「生みの母親の手でなくちゃ、子供は本当に生々と育ってゆきはしない。向うで子供を引取りたがってるのは、父親の情愛が眼を覚してきたのかも知れないじゃないか。君がその子供を丈夫に育ててるうちには、向うの男も迷いがさめて、君の所へ心から戻ってくるかも知れないよ。何にしても、子供を手離しちゃいけないよ。養育料やなんかのことは、どうにだって交渉の仕方はあるだろう。子供は是非とも君が育てなくちゃいけない。君が生んだ子だから、そしてこれまで君が育ててきたんだから、今後も君が立派に育ててやるのが本当だ。」
 彼女は言葉の切れ目切れ目に、そうだよそうだよと云うように、軽く首肯いてみせていた。彼が云い終ると、ひょいと顔を挙げて、彼の顔をじっと見た。月の光を受けた仄蒼い素顔の中に、獣のように露わな眼が真円く光っていた。沖の方から吹いてくる風と共に、彼はぞっと肌寒い感じを全身に覚えた。
「兎に角子供を大事にするんだね。」
 そう云い捨てて、彼は何気ない風に歩き出した。橋の先端近くまでゆっくり歩いていって、同じくゆっくりと戻ってくると、二人の女はまだ前の通りの姿勢で、細々と語り合っていた。彼はこの上二人の話を聞くのが悪いような気がして、吸い残しの五六本はいってる敷島の袋とマッチとを、銀杏返の女に与えて通り過ぎた。
「……親切なお客さん。」
 尻上りの調子で束髪の女が云ったらしい言葉が、後ろから追っかけてきたので、彼はふと振向いてみたが、急に顔が
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