、足をふんばりざま持ち上げようとしたが、首を縮め腰を落した彼女の身体は、円っこくなってずっしりと重かった。その手掛りのないやつを更に引寄せて、力を籠めて持ち上げようとした。
「こんな筈ではないんだが。」
くくくくと忍び笑いをするのを、もう一息と気張ってる瞬間に、突然彼女は堅くなった。
「いけませんわ。若旦那様が……。」
円っこい堅い重みがするりと手からぬけ出した。久保田さんは一歩半ばかりよろめいて、ひょいと向うを見ると、木斛《もっこく》の粗らな下枝の茂みの彼方に、高等学校の受験準備をしてる長男の洋太郎が、寝間着姿で縁側に立っていた。ちらと視線が合ったか合わないか分らないまに、洋太郎は顔を伏せて、青銅の手洗鉢の水を二三杯手に注ぎかけて、そのまま家へはいってしまった。
久保田さんはぼんやりその姿を送ったが、ふいに鼻の穴を脹らまして笑い出した。
「変な時間に便所へ起きたものだな。」
そしてなお笑い続けたが、木影に隠れてるお清の着物の紫縞が眼に止ると、頭を軽く一振りして云った。
「もういいから、庭を掃いてしまったらどうだい。」
彼女がおずおずと出て来て竹箒を手に取ると、久保田さんは少し向うへ遠ざかった。
「若い者に遠慮をしてるんだな。ありがちのことだ。」
そして、朝日の流れてる晴々とした空を仰いで、胸の奥まで深い呼吸をして、ひどく上機嫌になった。
その上機嫌は毎朝続いた。一度書斎にはいると、厳格寡黙な研究家に返って、用を聞きにくるお清へも冗談口一つ利かなかったが、朝早く起きるとにこにこして、庭の中でお清を待ち受けた。所が不幸なことには、お清はもう次の朝から庭へ出て来なかった。久保田さんは自分で竹箒を使ったり、植込の枝振を一々見て廻ったり、地面に匐い出してる蚯蚓の色を研究したり、建仁寺垣の蝸牛をからかったりして、朝食までの時間を過した。
「若い者達はなかなか遠慮深いとみえる。がそれも結構だ。思想上では随分勇敢だからな。」
ふと浮んだそういう考えに自ら微笑んで、久保田さんは毎朝必ず早起をした。そのためか、顔色も多少よくなり、食慾はだいぶ進んできた。
そして、次の週の日曜日には、六歳と八歳との悪戯盛りの男女の子供を連れて、午前中から大森の姪が遊びに来たので、久保田さんは何だか勉強の邪魔をされる気もしたし、久しぶりで友人の顔が見たくもなって、大学奉職中の同僚を訪ねていった。久しぶりに話がはずんで、自分の著述のことまで吹聴しながら、引止められるままずるずると居据って、夕食の馳走にまで預ってしまった。それから、馴れない四五杯の酒に陶然として、一寸話が途絶えた時、実は夕方早く帰って皆と食事を共にするつもりだったことを、後れ馳せに思い出して、慌しく帰りかけた。
もうすっかり暮れてしまって、一日の遊歩から帰り後れた人々や、これから華かな巷へ出かけようとしてる人々などで、電車はぎっしり込んでいた。久保田さんはその中に挾って立ちながら、吊革に一寸左手をかけておいて、きらきらとした街路の燈火を、ぼんやり窓の外に見やっていった。そして頭の中では、課外講演といった風の形式ででもよいから、その大研究の片鱗だけでも学生に聞かしてくれないかと、先刻友人から云われた言葉を、得意然と味っていた。
その時、ふと久保田さんの注意を惹いたものがあった。初めは、甚だ空漠とした芳香みたいなものだったが、それが次第にはっきりとしてきて、一定の形を取って、すぐ前に立ってる人の耳となった。久保田さんは何気なくそれに眼を止めたが、次には一心に見つめ初めた。令嬢風な扮装《いでたち》をした背の高い若い女で、束ね目も見せず一面に縮らした髪の下から、その耳朶がぽっかり覗き出していた。くるくると巻いてやんわり垂れてる薄赤いやつが、殆んど皮膚と地並な白い産毛《うぶげ》に包まれて、赤味がかった細かい縮れ髪の中で、宛も海藻の中に浮いている、小さな水母のように見えたり、生きた貝殼のように見えたりした。光の加減かなんかで、そういう二つの変化を鼻っ先の耳が示す毎に、久保田さんは肩をぴくりとやっていたが、やがて腹の底がむしゃくしゃしてきて、同時に胸の中がもやもやっとしてきて、垂れていた右手を何心なく挙げると、ひょいとその耳の下の端をつまんでしまった。そして、中までふうわりしてきりっとしまった、もちゃもちゃした感じに喫驚したが、間髪を容れずに、縮れっ毛の大きな頭が迅速にぐるりと動いたので、また更に喫驚して、久保田さんはエヘンと大きな咳払いをした。それから殆んど本能的に、袂の煙草を一本探って、すぐに火をつけながらすぱすぱやったが、あたりの皆の眼が一斎にこちらを向いたので、三度喫驚して立竦んだ。丁度その時、車掌台に近い頭の上で、チンチンと二つ鳴ってまたチンと鳴ったので、久保田さんは初めて我に返った
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