建設的な形象は、退嬰的な非建設的な創造である。文学は作品の量によりも、作品の質に、真の責任を持たなければならない。
 東洋に、一種の文芸復興があり得るとするならば、その発展的一元化が要望される現在、支那について如何なる期待が持たれ得るであろうか。上述の青春を以て吾々は之に臨む。然る時、先ず詩経の一部が浮出してくる。次には、多くの詩や小説の中の少数のものが浮出してくる。この数は、一種の懐古趣味を捨て去る時になお少数となる。それから、黄帝や老子を中心とする自然観が大きく浮上ってくる。哲学的な自然理念を受容する、その受容の東洋的な独特な仕方である。だが、其他は余りに老いている。そして、現代の若い支那はどうか。これに真の青春を吹きこむことが可能であるかどうか。ここにも、要望される文学の責任の一つがある。
 大陸は老いているが、島は常に若い。こう云えば過言であろうか。それはとにかく、わが青春は島を夢みる。なぜなら、神話が復活してきたからである。日本の神話は島の神話だ。古事記の物語は島の物語だ。
 吾々が、今、地図を披いて、太平洋に散布してる島々を見入る時、おのずから眼に涙が浮んでくるのは、何故であろうか。皇軍の大作戦の故もあろう。然しそればかりではない。この大作戦を通じて、神話の復活――島の神話たる日本神話の復活が、胸の底にひしとこたえるのである。フィリッピンだけでも七千余の島があるという。大東亜海の島々は無数であろう。神話の復活の中に身を置いたわが青春は、そこを、その大小無数の島々を、故郷のように夢みるのだ。夢みつつ涙ぐむのだ。神話が復活したからだ。
 現代への神話の復活を、こういう風に述べれば、余りに他愛ないことだと識者は笑われるであろう。けれども、わが青春そのものの胸へじかにふれるものは、先ずそこから始まるのである。民族精神の高さも深さも底知れぬ力の発現も、そこから湧いてくるのである。神話の復活をこの素朴な形態に於て捉えた後にこそ、いろいろな論議はなされなければならない。
 この段階、わが青春が島々を夢みる段階に於て、大陸は既に老い、島は常に若いと云いきれる。私はこれを、政治的な或は経済的な或は民族的な意味で云うのではなく、其他如何なる意味で云うのでもない。大東亜の新たな文化、もしくは局限した新たな文芸、それだけの面について云うのである。だが、文芸に於て、更に狭めて文学に於て、神話の復活を顕現することは容易でない。なぜなら、やはり、常に、文学は現実の転位だからである。
 転位の世界に於ても、取扱われる現実的な事柄は、常に現実の現象の方へばかりかたよりがちであって、現実の精神へはなかなか高まり難い。而も神話の復活は、現実の現象ではなくてその精神なのである。この精神を客観的形象として把握するには、主観を客観と同体に鋳上げることが必要であり、これが転位の世界では容易に出来難いことである。
 それらの実践はさておき、先ず頭では、神話の復活を、文芸のなかに唱道するに止めよう。青春の復活は力であり、神話の復活は精神である。この力をこの精神で貫くことだ。力は地面をのみ匍い廻りたがることがある。精神は空高く飛び去りたがることがある。両者をしかと繋ぎ合せるべきだ。
 この構想を、大東亜の新たな文化に、文芸に、ただ素描として提起することだけでも、何かしら輝かしいものが感ぜられる。これを詳細に述べることは容易でないが、この輝かしいものを内に持つことを、さし当っての出発点としてもよかろう。大陸は老いてるといっても、それは現代の若い支那を指す言葉ではない。島は常に若いといっても、それは現在の南洋諸島の住民を指す言葉でない。前者にはこの言葉を覆えすような光が必要であろうし、後者にはこの言葉を感得させるような光が必要であろう。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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