ものが存在するのであって、その童話的なものをこそ、子供に読ませるものとしては、本当に書き生かして貰いたかった、云々。――日支事変の当初、私は蒙古の徳王にひどく心惹かれた。砂漠の中の百霊廟の町、何処より発し何処へ流れ去るとも分らぬ清流、右岸にはラマの聖堂、左岸には粗末な民屋、其処で、ジンギスカン以後の七百年の眠りから蒙古民族を覚醒させんと夢想している徳王、その温容と熱情と知識と知慧、民衆中最高の文化と力との精神……私は彼を童話中の人物として空想したのである。
 こう二つだけを並べたのでは、何のことだか分らないだろうし、多くのことを並べなければ、まとまった一の像は得られないだろうが、煩雑を避け一言にして云えば、新時代の童話的精神を要望したいのである。新時代の童話は、明晰な眼を必要とし、新鮮な動きを必要とする。そしてこの眼とこの動きとの間に些の間隙も許されない。眼と動きとの合致がある場合、如何なる現実の重圧があろうとも、常に人間性の明朗さが確保される。明朗な眼とは知性であり、新鮮な動きとは行動である。――斯く言えば、それもただ私の童話であろうか。然しながら、「神話」と「童話」とをもし並立して考えられるとすれば、「童話」の方を取るべき時代ではないか。
 いろいろなことが言われている。――思考と行為との分離がある。自我の分裂がある。自意識の過剰がある。信念の崩壊がある。目標の喪失がある。経済の優位がある。夢想の消滅がある。現実の重圧がある。徒労なる彷徨がある。幻滅から来る頽廃がある。復古と偶像破壊との矛盾がある。伝統の断層がある。廃墟と曠野とがある。再建と革新との喰違いがある。其他、数えたてればきりがない。
 こういう時に当って、明朗な眼と新鮮な動きとの合致を必要とする童話の世界が、夢想されるのである。この夢想、単なるロマンチックな憧憬ではなく、新時代の童話そのものに於けると同様、科学的な現実的な夢でなければならない。非常時と平常時とが融合しなければならない如く、現実と夢とが融合しなければならない。それ故また逆に、知性と行動との融合する童話の世界が希望されるのである。――たとい現実にはそれが困難であろうと、文学の上に於てはかかる冒険も可能であろう。新時代の文学の途はそこに開ける。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング