精神は、外交的儀礼の一作法として理解されるものではなく、体得された心理感覚として理解されなければならない。
 この二つのもの、自治精神と世界精神とを、日本のエリット達は己が旗幟として掲げようと必死になっている。障碍は多い。然し努力は挫けないであろう。そしてこのことに、中国のエリット達は必ずや衷心から同感するに違いない。中国にはこの二つの精神が、意識的にせよ無意識的にせよ、既に多分に存在するのだ。
 私は嘗て、中国の現在の或る人々について、彼等が中国人であるよりもより多く世界人であると、驚嘆と同感の念を以て言ったことがある。その時、中国の知人達から、それは皮相な見解であるとされた。或は実際そうであるかも知れない。欧米で修学した人々が、欧米の風習を容易く身につけている、その外見だけに囚われた見方かも知れない。そうであるかも知れないが、然し、他の見解も成り立たないであろうか。
 魯迅の作品には、民俗的な生活雰囲気が余りに色濃く描かれているが、それに対する愛憐と嘆息との色調があり、この色調の源泉を重視してもよいであろう。林悟堂の真姿は、彼の中国語の文章の中にあるというのが本当だとしても、英文の著作の中にある彼の姿もまた、虚偽のものではなかろう。他国にある華僑たちは、その相互間に、連帯責任と相互扶助との密接な連繋があるとしても、異境に悠々自適するその生活態度は、重視するに価しよう。中国の社会は広大で複雑で、互に通じ合わぬ幾つもの言語が現存し、頭脳の回転の速度も北部と中部と南部とでは可なり異り、政治経済の情勢も時と処とによって変るが、そういう社会に生きてる或る人々の社会的訓練は、そのまま国際的なものにまで通用する性質のものではなかろうか。その他、例証はいくらもあるが、それらのものが、或る人々の身に着いて、その精神状態の基盤となる時、それはもはや一のローカル的特色ではなくて、世界精神の温床であり萠芽であると言ってもよかろう。
 また、自治精神については、これは既に中国民衆の智慧となっている。彼等が、あらゆる権力に背を向け、政治に対して無関心でさえあり、而もさまざまの動乱の中に怜悧に身を処していることは、周知の通りである。――知識階級の若い人々の熱烈な政治論議が、往々にして宙に浮くのは、この民衆の智慧を見落していることに由来するのではあるまいか。
 世界精神と自治精神、この二つのものの追求に於て、中日両国のエリット達は、堅く結ばれるであろう。暗澹たる不安動揺の世界情勢の中に、それは一つの灯火ともなり得る。大戦後に模索される新たな平和形態は、この二つの精神に貫かれたものであるだろうと、否、それでなければならないと、私は思う。ここに一つの世界主義が生れる。
 東洋流の諦念は、吾々の精神生活をも肉体生活をも、つまり吾々の生活を、余りにも無力な貧しいものにした。然しこの諦念は、人間の生き方の自然主義から来たものであり、そしてこの意味の自然主義は、自然をも同化するという積極的なものを本来は持つ。それは西洋流の合理主義或は科学主義と、対立するものではなくて、表裏の関係にある。この裏をも表をも呑みこんで身につけることは、言われるところの人類の危機の時代に於いて、生きる上に力強いことなのだ。
 そのような意味に於いて、東洋流の諦念は脱却されなければならない。そしてその上での新たな世界主義の提唱なのだ。これを、吾々の芸術に、思想に、政治理念に、文化一般に盛り込むべきである。自治精神と世界精神とによる世界主義、これに中日両国の人々は同感するであろうか、否か。同感するであろうと私は信ずる。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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