仕方によってはなおることもありましょうし、野口もそのつもりで、親切にいたわってくれます。朝の御飯がおいしく食べられるようになれば、もう病気はなおったも同様だ、とそう申しては、私の朝御飯に注意してくれます。けれども私は、いつからとなく、自分のことよりも、野口のことが目について仕方なくなりました。野口は、朝から何か生臭《なまぐさ》いものを食べるのが好きです。沓掛に来ましては、魚類が不便なので、牛肉の罐詰や佃煮や、時にはすぐ側の旅館にたのんで鯉こくなどを、朝から食べました。そして、脂のぎらぎら浮いてる味噌汁を、音を立ててすすったり、佃煮で茶漬にした御飯を、くしゃくしゃかんだりしますのを、そばで見ていますと、その匂いがむかむかと胸にきて、私はもう何にも食べる気がなくなります。いくら眼をそらしてもだめなんです。すると野口は、気の毒そうな眼付で私を眺めます。やはり、冷い、氷のような憐憫です。その奥に、恐ろしい野性……そんなものを私は感じてはいけなかったのでしょうか。
――「お前は、胃腸も悪いかも知れないが、それより、神経衰弱かも知れないよ。」と野口は申します。
まあなんと、安っぽく、片付けてしまったことでしょう。時々、野口のそばで、私はぞっと、云い知れぬ不安を覚ゆることがありましたが、それは神経衰弱なんかのせいではありません。野口のうちには、何かこう、私を押し潰してしまうようなものがありました。それが何であるか、本体を捉えようとすると、私はただ、自分の弱さや脆さを感ずるだけでした。そして息苦しくなるばかりでした。けれど、例えば……こんな言葉を使ってよいかどうか分りませんが……例えば、木村さんの側では、私はそんな圧迫を感じないばかりか、却って楽に息が出来、気持が晴ればれとして、頭の中まではっきりしてくるようでした。木村さんについては、野口は変なことを言ったことがあります。「木村君は、なるほど、才能もあるし、明敏だし、好男子でもあるし、立派な人物かも知れないが、然し、あの香水の匂い……三十男の独身者の香水の匂い、あれだけはいけない……。」その本当の意味が、私にははっきり分りませんでした。というのは、私がぼんやり感じますところでは、男の人で三十年配の独身者は、大抵、何かしらひどく男臭いもので、それを消すために多少香水を使ったとて、いけないわけはありませんでしょう。或はまた、三十三
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